「風流物語」 番外編
LAの空は重たかった。 写真やテレビで紹介される、あのサンタモニカのカリフォルニアブルーが、そこにウメばあさんかった。 サイクリングロードを埋め尽くすはずのローラーも、スケボーキッズも、まるで椰子の木の下でビニールにくるまるホームレスに凝縮されてしまったかのように、その姿を見せてこなかった。寒い。 しかし、正月以外休んだことのない風流を閉めてきたウメばあさんは、これくらいのことではへこたれない。 「ほとんど雨の降らないロスで、雨に会えるのはラッキー。いうてパンフレットに書いとったよ」 「そんなん旅行会社の言い訳や」 LA在住十五年の節子さんが諭した。 ウメばあさんさんと節子さんとは尋常小学校時代の同級生で、昔はよく一緒にお茶を飲んだりしたらしいが、家庭の事情で節子さんがLAに永住して以来会うことがなく、今日の十五年振りの再会を、大学生となった僕が海外出張を利用してセッティングしたというわけだ。 八十五歳にして初めての海外旅行である。 「それと、言うとくけど、こっちではロスなんて言わんで、LAや」 「なんで?」 「そんなん知らんけど、ロスとかシスコとかやなくて、LAとサンフランや」 「へえー、なんかようわからんなぁ」 僕たちは、節子さんの運転するカムリステーションワゴンで北へ向かった。 全体の三、四割を日本車が占めるLAで、カムリワゴンは珍しくも何ともない。ただ、八十五歳の節子さんが運転するとなると話は別である。 「エスティマがプレビアで、ピアッツァがインパルスなんやから、カムリも何かこっち向きの名前つけたらええのに」 若い車に乗っているだけあって、話も若い。ウメばあさんさんは、少しびびりながらも西海岸の風を感じていた。 車はフリーウェイのカープールレーンを通って、ロデオドライブを目指した。この車線は二人以上乗った車のみの専用レーンである。 節子さんはアクセルを踏み、マイル表示とキロ表示が同居して見ずらくなっているメーターの針を七十マイルにした。十五マイルの速度オーバーであるが、流れに従っていれば何の問題もない。 「あっ、思い出した。うちの店のお客さんに、ドジャーズのTシャツ頼まれとったんじゃ」 「あんた、ドジャーズが何か知っとんの?」 「知らんけど」 「・・・まぁええわ、近くにショッピングモールがあるからそこ行ってみよ」 ショッピングモールに着いたのは、それから二十分ほど経ってからであった。あたりはすっかり暗くなり、駐車場にある表示灯は五十二度と六時三十分を交互に示していた。 華氏五十二度から三十二を引いて五/九をかければ摂氏十一度となるし、六時三十分に五時間たして夜と昼を反対にすれば、日本時間の午前十一時三十分となる。 温度にしても時間にしても絶対的なものではない。あくまで神様がつくったものを測る物差しなのだ。その物差しのあてかたが国によって違い、場所によって違うだけなのである。 「どこに置いとんのか聞いてみよ」 こう言うとウメばあさんさんは、モールの案内係に青春時代の敵国後で話しかけた。 「フェアー シュド アイ ゴー トゥ バイ ア ドジャーズ シャツ?」 いつの間に練習したのか完璧な文法だったが、返ってきた答えは意外な言葉であった。 「ファツ ドジャーズ?」 「ドジャーズいうたらメジャーリーグのLAドジャーズやないの、何言うとんの」 ウメばあさんさんを助けるつもりで、いきなり噛みついた節子さんの日本語がなぜか通じた。 「オーライ ダジャーズ」 ダの発音がドになっただけで通じない。やはり敵国後はウメばあさんさんにとって難しすぎた。 モールを出た車は、最初の交差点を右折してフリーウェイに入った。道幅の広いLAでは、殆どの交差点が右折可である。 前方に迫る光をまとった高層ビル群が、ダウンタウンの水先案内だ。にじむ光に目を眩しくさせながらウメばあさんさんは呟く。 「今頃、日本はお昼かねえ」 アメリカにはアメリカの時間があり、日本には日本の時間がある。 「不思議やねえ」 車は、光の中に吸い込まれていった。
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