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ときどき実施する大学生相手のキャリア講座で、マズローの5段階欲求を説くことがある。 講義では、「生理的→安定→親和→承認→自己実現とグレードが上がる欲求だが、自己実現まで高望みせず、承認で手を打とう」と話すことが多い。 そこで、各時代の「承認欲求」を切り取り、世相を映す鏡としてみた。 1944年~45年 神風特攻隊 知覧の特攻記念館で隊員たちの遺品を見ると、お守りが多いことに驚かされる。生還が許されない特攻隊員は、身を護るお守りを自らの手で離したのだ。 その決意の重さは平和ボケの私などにはとても想像できないが、彼らは本当に皇国の戦士だったのか。靖国の英霊となることを心から望んだのか。 お守りの次に多い遺品が、これらの問いの答えになるかもしれない。それは、母への手紙。 山下泰文大将にあこがれた職業軍人も、神宮の雨に濡れた学徒動員兵も、皆、母を思いながら散ったのだ。つまり、母からの「承認」が最期の支えだったのかもしれない。もちろん、「自己実現」など詮無い時代であるが。 1960年~70年 学生運動 戦後の騒乱期を終え、経済が安定し始め、日本が文化国家へと成長を遂げる過程で発症した成長痛のようなものが、学生運動ではなかったか。 日米安保条約に反対し、ブントが牛耳る全学連によって煽動されたのが60年安保。その後、佐藤首相のベトナム訪問を阻止しようとした67年の羽田闘争以降、革マル派などによるゲバルト行為に大人たちは眉をひそめた。 東大安田講堂事件で有名になった70年安保では全共闘が主役となり、その活動が全国の大学や高校にまで広がった。 あのパワーは何だったのか。バリケード封鎖に何の意味があったのか。 大学進学率が10%に満たなかった当時、村の神童と呼ばれていたに違いな選良たちは何が不満で、誰からどのような「承認」を得ようとしていたのか。 成長痛として片付けるにはあまりに「痛い」青春の蹉跌であるが、西部邁氏をはじめとする多くのリーダーが転向したことを考えると、学生運動は、「自己実現」のない、「承認」のための「承認」だったと思わざるを得ないのである。
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