501.江戸しぐさ(2011.1.5掲載)
今から35年前の年末のある日、実家の庭で餅つきの準備を手伝っていた私は、かまどから運んできた鍋を持つ手をすべらせ祖父の足に熱湯をかけてしまった。 かなり熱かったと思うが、祖父は表情一つ変えず庭のアロエをちぎり、無言でやけどの手当をした。自分なら怒って蹴りを入れ、罵倒しても収まりがつかないような状況であるが、祖父の所作は変わらなかった。 これこそが明治人の気骨か、はたまた東京暮らしが長かった祖父に染みついた江戸しぐさか。とにかく、立ち居振る舞いの美しい人だった。 世知辛い俗世を清めるかのように、いま、江戸しぐさが脚光を浴びている。 傘をさしてすれ違う時、お互いに傘を人のいない外側に傾けて濡れないようにする「傘かしげ」。電車やバスで新客が乗ってきたら、先客がこぶし分腰を浮かせて席を詰め、一人分の空間をつくる「こぶし腰浮かせ」。人前を横切る際に手刀を切って非礼をわびる「横切りしぐさ」。満員電車などで足を踏まれた時、ここに足を出していてごめんなさいという気持ちで踏まれた方が先に謝る「うかつあやまり」等々。 確かに、初めて上京した時、東京人のマナーの良さに連日感心していた記憶がある。 合流地点などで下手な運転でも快く入れてくれる「首都高割り込み」。満員電車で降車客のためにドア付近の乗客が一度ホームに降りる「いったんホーム」。隣客の邪魔にならないよう、新聞を折り紙のように小さくたたんだりひっくり返したりしながら全紙面を読む「折り紙読み」等々。 江戸しぐさは人口密集地で気持ちよく暮らすためのしつけ、知恵、暗黙知の集大成のようなものである。もちろん教育にも生かされていて「三つ心、六つ躾、九つ言葉、十二文(ふみ)、十五理(ことわり)で末決まる」という教えがあった。 あの日の祖父を目標に、四十八の手習いで江戸しぐさを身につけようと思った初春なのである。 ================================================================ 江戸しぐさの出典は、「にちぎん第20号(2009)」です。
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