854.コタツにミカン(2018.1.29掲載)
コタツからミカンが消えて久しい。 かごに盛られた山吹の玉はお茶の間の主役であり、団らんのランドマークでもあった。ミカンが消えたあの日から、家庭崩壊のシナリオは始まっていたのかもしれない。 なつかしき我が実家のコタツにも、ミカンは鎮座していた。貧しき70年代の貴重なエネルギー源は指先を黄色く染め、家族を一つにした。そして、ミカンのお供は決まって花札だった。トランプでも双六でも人生ゲームでもなく。 母親が洗い物を終えると、しばしミカンにお暇を出してコタツ板をひっくり返し、緑のフェルト面を出して任天堂花札を登場させる。黒光りする札をめくって飛び込んでくる48枚の絵札はミカンと同じくらい眩しく、いまでも脳裏にその極彩色が焼き付いている。 コタツ花札は学業にも影響を及ぼした。小学4年の秋の版画大会で、「柳に小野道風(11月札)」を彫り、小学5年の書き初めでは「松に鶴(1月札)」と書いた。 小学6年の卒業文集には、「梅にうぐいす(2月札)」の時を経て「桜に幕(3月札)」の下、今日の良き日を迎えました、などという変な文章を書いた。うーん、季節感があっていいじゃないか。小学生にして、古典では1月から3月までが春だということを札から学んでいたのだ。 しかし、ひとつ解せない札があった。横尾忠則を彷彿させる、ひときわ華やかな「桐に鳳凰(12月札)」。桐がなぜ12月なんだ。 桐には鳳凰の止まる木(フェニックスツリー)という二つ名があるくらいだから、組み合わせには問題ない。しかし、桐の花は夏の季語で桐の葉は秋の季語だ。 この理由には諸説あるが、最後の札だから「これっきり」で桐にした説を支持したい。「ピンからキリ」のキリである。 けど、どうせならわかりやすく、12月の札を「コタツにミカン」としてはどうだろう。季語的にもぴったりだし1年締めくくりの札としてもふさわしい。 団らんとミカンの復活を願って、そんな絵札を思い描いてみた。
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