931.スラムな町(2019.8.5掲載)
親戚が海水浴場の近くに住んでいた関係で、小学校時代は夏休み突入を待ちかねてその海水浴場に入り浸っていた。 放送禁止の「黒ん坊大会」に出たり、海の家で飴湯を飲んだりくらげに刺されたりという長閑な毎日だったが、泳いでいる最中にぷかぷか漂ってくるスイカの皮だけは何ともいやだった。 スイカ割り大会の残骸ならまだ許せたが、その皮の出自は台所の生ゴミだった。 昭和40年代、地方自治体によるゴミ収集システムがなかった海沿いの町では「生ゴミは海に捨てるもの」という認識が違和感なく浸透していた。 かく言う私も、海水浴の後に縁側で頬張ったスイカの皮を、叔母と一緒に防波堤まで捨てに行ったものだ。ポリバケツの生ゴミを海に落とす時のボチャボチャ違法投棄の音が、今でも耳に焼き付いて離れない。 十日間の浜暮らしに飽きて実家に帰ると、「赤とんぼ」のオルゴールを奏でたゴミ収集車が路上のセメント製ゴミ箱から生ゴミを積み込んでいた。 当時人口30万人の県庁所在地。ゴミ収集システムは完備していたが、ゴミの行き先は家から500メートルしか離れていない焼却場だった。 我が実家は決してスラム街に居を構えていたのではない。焼却場と反対方向に5分も歩けばデパートがあったし、県庁まで自転車で10分の中心地なんだ。にもかかわらず、半径500メートル内にゴミ焼却場、火葬場、刑務所、少年刑務所が密集する変な町だった。 城下町の常だと思うが、一等地を武家屋敷が占拠しその近くに御徒の町。次いで鉄砲屋、鍛冶屋、木屋と並び最後に商人の町。そして、空いたところにさまざまな施設を押しつけたのではないか。今ならPTAが気絶しそうな佇まいであるが、当時は生きた社会勉強の教材だった。 投棄したスイカの皮に海で出会うように、生ゴミは同じ町で処理され人は刑に服す。いま思えば、この町は循環型社会のお手本のような場所だったのかもしれない。 スイカの皮を見るたび、夏の海とスラムな町を思い出すのである。
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