「風流物語」 一.風流のそばまき小
昭和五十五年夏・・・・ 「風流」は、松山市駅の南口から歩いて十分くらいのところにある下町のお好み焼き屋である。 といっても、外見上は普通の家と全く変わらない造りをしていて、「お好み焼き風流」という暖簾がなければ、誰もそこがお好み焼き屋であることに気が付かないといった感じである。もっとも、風流が世の人に、ここがお好み焼き屋であるということを宣伝する意味は、全くといっていいほどない。というのは、この店に来る客というのは九十九.九パーセント常連客で、飛び込みの客というのが殆どいないからである。つまり、その暖簾は、常連客に対し、営業中であるかどうかを知らせるためだけのものなのだ。 外見上は普通の家と変わらないと書いたが店の中はそれ以上に普通の家である(ちょっと昔風だが)。入り口を開けるといきなり六畳ほどの土間の台所で、そこに一.五メートル四方の大きな鉄板が一枚と、その回りに椅子が四、五脚置いてあるというだけで、あとは普通の家の台所と同じなのだ。 そして、その奥に六畳一間の部屋があり、そこで生活しているウメばあさんがこの店の店長で、八十四歳になるというのに一人で店を切り盛りしている。それと、四十五歳独身のプー太郎息子よしおさんもそこに同居していて、ウメばあさんが疲れた時などには代わりにお好み焼きを焼く。焼くのはいいのだが、よしおさんが焼くお好み焼きはウメばあさんのと比べると格段に薄く、独身の割にはせこい。 このウメばあさん、戦後間もない頃から焼いているというだけあって、腕は相当のものだ。三十年かけて、広島風の作り方をしながら、焼き上がった時には関西風になっているという独自のスタイルを確立した。 そして、このお好み焼きがとてつもなくうまい。うまい上に道楽でやっているもんだから異常に安い。例えば「そばまき」といって、お好み焼きの中に焼きそばを入れたものがあるのだが、この、そばまきの小が二百五十円で、大が三百円である。小といっても他の店の大盛りくらいはあって、大人がやっと食べ切れる程の大きさである。 安くてうまいのに、なぜ常連客しか来ないのかというと、それは、初めて風流のお好み焼きを食べた客は、必ず腹の調子が悪くなるという伝統があるからである。つまり、二回目からは免疫ができて平気という訳なのだ。その免疫について、少し詳しく紹介してみたい。 僕が初めて風流を訪れたのは、今から五年程前のことである。ここの常連客である大阪育ちの作山くんに連れてきてもらったのだ。 「ここのお好み焼きはうまいんやで」 「何食べよか?」 「そばまき食うてみなはれ、そばまき小」 「じゃ、そばまき小」 そう言って鉄板の回りを囲っている木枠に目をやると、何やら五ミリ程の黒い物体がうごめいているのが目に入った。それは、紛れもなく、「ご」で始まる四文字の、例の台所における生きた化石であった。 「作山くん、何かおるで」 「あぁ、気にせん気にせん。お好み焼きはこーゆー所で食べるんがうまいんや。きょーびお洒落なお好み焼き屋がぎょーさんできてるけど、あんなん高いだけで、ちぃともうまない」 なるほど彼の言うことも一理あるが、それにしてもこーゆー所で食べた経験のない僕は、突然の先制パンチに度肝を抜かれた。 それから三十分程経って、お好み焼きが完成間近になった頃、また例の黒い物体が目に入った。今度はその黒い物体、なんとソースの入っている壷めがけて歩いている。じっと見つめる僕の視線をよそに、そいつはソース壷の壁を上り始めた。 「頼む、入らないでくれ」 僕の切なる願いもむなしく、その黒い物体はソース地獄に落ちてしまった。 青ざめる僕・・・。 ウメばあさん、このことを知っているのか知らないのか無造作にそのソース壷を掴み、できたてのお好み焼きの上にそのソースをたっぷりとかけた。僕の方に入っているのか、作山くんの方に入っているのか。まさか、お好み焼き屋でロシアンルーレットをするとは夢にも思っていなかったが、今更何を言っても始まらない。僕は、観念して食べることにした。 香ばしかった。 けど、二回目からは腹の方は大丈夫だった。しかし、それ以来、風流ではそばまき小以外のものを口にしていない。いや、一度だけ食べたことがある。冷やし中華。何を血迷ったか、大胆不敵にも生ものに挑戦したことがあったのだ。しかし、別に何もなかった。これが、そばまき小の免疫なのだ。
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