「遠い空」 第九章 鶴の恩返し その四
萩原心理研究所にも人並みに二〇〇〇年はやってきた。 カウンセリングというアナログ稼業にとってはY2Kなど遠い世界の話。米国内だけで三千六百億円を対策費に投じたと聞いても、 「もったいない」としか言いようがない。誰がY2K特需で潤ったかは知らないが、Y2Kはデジタル業界が仕掛けた謀略だという穿った見方をしてみたくもなる。 正月らしさの創出を忘れてしまった日本人に追い打ちをかけるようにやってきたY2Kであるが、丸子日枝神社で歩射(おびしゃ)を見ていると、そういうことで右往左往することがばからしくなってしまう。 歩射は平安時代から伝わる正月の神事で、白丁姿の稚児が歩きながら弓矢で的を射る行事である。流鏑馬が馬上から射るのに対し、徒歩で射ることから歩射の字をあてて「おびしゃ」と呼ばれているのだ。 アナログ時計すらなかった平安の御代から連綿と進化し続ける人々のくらしと、ただのものさしでしかない時間という相対軸。 比べるまでもない。 「月日は百代の過客にして行き交う年もまた旅人なり」なのだ。 ◆ 二〇〇〇年最初のクライアントは、東洋薬品新薬研究所の女性研究員浦田桐子。二十六歳の独身で、今日が初めてのカウンセリング。 「こんにちは、どうしましたか?」 「あのー、私、社員食堂で食べられないんです、お昼ご飯。何か悪いことが起きそうで」 「えっ、どういうことですか?」 「私、毎日動物実験ですごい劇薬を使ってるんです。着替えて、手をよく洗ってから行くんですけど、食堂で誰かの食べ物に入りやしないか、だんだん心配がひどくなって、すごく気になるんです」 「ちゃんと気を付けてるんでしょ」 「はい、そんな大変なことになるはずないと、頭ではわかってるんですけど不安なんです。誰かを殺してしまいそうで」 「殺すなんて言葉、あなたの顔からは想像もできませんね」 「そんなことないですよ。毎日ネズミを実験で殺してますから」 典型的な加害妄想である。 二時間ほどカウンセリングして、彼女を治療する糸口は、幼稚園の頃祖母によく言われた「生き物を大切にしないと必ず罰があたりますよ」という言葉であることがわかった。祖母は毎晩浦島太郎や鶴の恩返しなどの昔話を彼女に語り、最後にこのフレーズを繰り返したという。 これらの昔話のメタファーは動物愛護なんかじゃなく、欲望のままに街のオキテを破ってしまう人間の弱さだと思うが、まあいい。二、三回カウンセリングすれば自己洞察とカタルシスで症状は軽減するだろう。 「また来週この時間に」 「ありがとうございました」 今日のクライアントは一人だけだ。不景気のあおりをくらってクライアントの数も減り続けている。生きていくのに精一杯な時は、 「生きる」ことに集中するから悩まない。 俺は入り口の戸を閉め、実家から送られてきた干し柿を頬張りながら、まだ見ていない年賀状の束を手に取った。 外側三、四ミリが乾燥して黒ずみ、内側はウェットに舌でとろける干し柿の理想型は、スーパーでは絶対に手に入らない。採算と日持ちを無視した家の軒先でこそ成し得る故郷の味なのだ。祖母が夜なべをして渋柿の皮をむきタコ糸をくくりつける姿は、冬の構図として練炭の炭のにおいとともによみがえってくる。 「あっ、サトミ…」 サトミから年賀状が来ていた。 『今年もよろしくお願いします。田中サトミ MAX』 「ん?MAX…。あ、犬か」 横浜のホテルで「犬が熱を出した」とドタキャンをくらったことが脳裏をよぎった。 「住所は…、戸田市戸田西三六番」 二個目の干し柿を口にした。正月の味がする。 「サトミの家に行ってみよう」 台所の食器を見てみたい。カーテンの模様とか、テレビの大きさなんかも知りたい。サトミにかかわる全ての暮らしの色を自分の目で確認したい。 どうして?不安だから。つまり嫉妬。誰に?犬に。 とにかく突然訪れた俺をサトミは歓迎するに違いない。あの笑顔を見せてくれるに違いない。泊まっていけばと言うだろうか。いや、犬がいる。動物ギライの祖母に育てられた俺は物心ついた時から動物が苦手になっていた。だが、サトミが喜ぶなら犬好きになろう。 ランドローバーは戸田に向かった。 途中、DIYショップで買ったドッグフードを助手席にのせた。 地図を頼りに二時間かかってやっとたどり着いたサトミの家は、意外と古い借家風の質素な一戸建てだった。玄関の横に野ざらしにされているプロパンガスのボンベが、妙に暮らしっぽい。 そして、呼び鈴を鳴らして出てきたサトミの顔は、予想に反して困惑色だった。 「あっ、萩原さん、どうして…」 「うん、ちょっと近くまで来たら年賀状で見たサトミの住所と同じ所だったんで、いろいろさがして…、で、来ちゃった」 「そうなの」 「上がっていい?」 「あの、ちらかってるから、ちょっと…」 「そんなのいいよ、すぐ帰るから」 「あのね、それに昔の彼氏の服とか靴とか、男物がいっぱいあって、萩原さんきっといやな思いするから」 「う、うん、でも昔のでしょ」 「そうだけど」 「ならいいじゃん、上がらせてよ」 「萩原さん、今日ここに来たこときっと後悔すると思うよ」 「えっ」 サトミはいつもの顔じゃなかった。 そして俺は、しかられた子供のように表情をこわばらせ、いま、自分の置かれている状況を必死で理解しようとしていた。 サンダルを履いて外に出たサトミは言った。 「再会してうれしかった。萩原さん昔のままでかっこよかったし。でもね、そのブランクの間、もしかしたら二人の時計は止まってたかもしれないけど、私には私の暮らしがあって、毎日一生懸命で、いろんな人と出会って…」 「男の人と一緒に住んでるってこと?」 「…うん」 「じゃ、話させてよ、その人と」 「やめて、そんなこと」 「…この戸、開けちゃいけなかったのかな、俺」 「そうね、開けなければたぶん来週あたり、またいつものようにどこかでデートしてたと思う」 「鶴の恩返しみたいだ」 サトミは遠くの空を見ていた。 俺はそのまま車に乗り込んだ。 「ごめんね萩原さん」 「いいよ、サトミが謝ることじゃない。俺が世間知らずだった」 ゆっくりとアクセルを踏んだ。 来るときの高揚とは正反対にとてつもなく体が重い。 カーステレオから尾崎豊の「遠い空」が流れていた。 ドッグフードは助手席におかれたままだった。 世間知らずの俺だから 体を張って覚えこむ バカを気にして生きる程 世間は狭かないだろう 彼女の肩を抱きよせて 約束と愛の重さを 遠くを見つめる二人は やがて静かに消えていくのだろう 風に吹かれて 歩き続けて かすかな明日の光に 触れようとしている 風に吹かれて 歩き続けて 心を重ねた 遠い空 Lyric & Music by尾崎 豊
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