「遠い空」 第八章 鶴の恩返し その三
八月も半ばを過ぎると蝉しぐれのボリュームが小さくなったように感じる。秋の引力に引き寄せられ、加速度的に夏の終わりに突入するセンチメンタルプロローグな季節。 とはいうものの、やはりうるさい。緑が少なくなったとはいえ、中丸子はまだまだ田舎だ。しつこいほどの蝉の声は、夏の名残を代弁するシュプレヒコールにも聞こえる。 デパートで昆虫を買う時代になっても、夏のBGMはこれだ。エアコンのきいたオフィスの窓越しにジリジリの外を見て、聞こえないはずのノイズをイメージで楽しむ。これが涼しくて一番風流な方法かもしれない。「香炉峰の雪は簾をかかげて見る。日本の夏は蝉しぐれをイメージしながら見る」か。 ◆ 今日最後のクライアントは、東洋薬品製造課の広長誠一。二十九歳の既婚者で、今日が三回目のカウンセリングだが、これが自称「精神病マニア」。道場破りのような感覚で俺のカウンセリングに挑んでくる。 確かに、ユング、フロイト、岸田秀などの精神分析の本は全て読破し、かなりの知識は持っている。だが、よくよくカウンセリングしてみると、ただの依存症であることがわかる。わざわざ自分の問題点を無理矢理見つけてはカウンセリングのネタにして俺に迫ってくるのだ。 「こんにちは広長さん」 「こんにちは」 「どうですか調子は」 「ええ、先生には申し訳ないんですけど、あれから別のところでカウンセリングを受けました」 「ほう」 「どうして人は結婚すると恋愛感情を失ってしまうのかって質問したんです。そしたらその先生、それは相手のことを本当に好きじゃないからですってつまらないことを言うんです。話になりませんよ、独身の女医じゃ」 「うん、私もつまらない回答だと思います」 「それともう一カ所、前世占いにも行きました」 「へえー、面白そうですね」 「私の前世は平安時代の検非違使だってまことしやかに言うんです。別当の座を狙う腹黒い政略家だって。なんの根拠があるんでしょう。もし私の前世がメキシコ人だったら、メキシコの歴史なんて知らないはずだからなんにも言えないと思いますけどね」 広長さんのようなタイプは最近多い。カウンセラーに頼って依存し、カウンセラーを攻撃するかたちで甘えている。カウンセラーに自分をいじらせながら自分は相手を攻めている。やられるふりをして結局は相手を攻撃する「受動攻撃性格」ともいえるだろう。 「広長さん、自分探しもいいですけど、寝た子を起こしてどうするんですか。悩みを掘り下げてばかりいると破滅しますよ」 「いいんです破滅しても」 そう言うと、広長さんは部屋を出ていった。この人はもうここには来ないだろう。 俺はふっと一息ついてソファーに腰を下ろした。今週の仕事はこれで終わり。今夜は七時に横浜のニッコーホテルでサトミと逢うことになっている。 こちらからは全く連絡の取れないサトミだが、昨日「暑いからホテルのプールにでも行かない?それから食事しましょう。明日は門限ないから」という電話があった。「犬にエサやらなくていいのか」と聞くと、「友だちに預けたから大丈夫」と言う。 晴れ、ときどき犬。 俺は犬に嫉妬しているのか。 とにかく車を出した。ランドローバーのエアコンはききがいい。丸子橋を渡る頃には風量をミニマムにして、CDを消した。 サトミと逢う時は、いつも音のない世界で車を走らせる。全ての雑音を絶って、サトミのことだけを考えたいからだ。 いつからこんなに好きになったのだろう。気がつけばサトミ中心に世の中がまわっていた。 やっと逢える。三十分後に逢える。 車は桜木町の駅を右折し、ランドマークを目指した。 薄暮に浮かぶホテル群、観覧車、ジェットコースター。夕刻のみなとみらいのパノラマは、人工的に造られた空間だけに季節感がない。自然を感じるような場所にいると、太陽が沈む時、決まって「ひと夏の思い出」というやつが脳裏を去来するが、ここにはそれがない。訪れる恋人たちが、それぞれの季節で愛を語れるようにできている。空間というより背景だ、ここは。 車を地下駐車場に停めた俺は、エレベーターでロビー階を目指した。 好きな人に逢う直前の高揚は、ビッグバン以前の無時間のごとくに静かに静かにエネルギーを溜め、心臓を鳴らし、せつなさの符号をマイナスからプラスにかえる。 日曜日より土曜日。両想いより片想い。帰り道より出逢い道。 「おまたせ」 サトミが先に来ていた。 「プール何階だったっけ」 「うん、それでね、今日プールやめにしない?」 「なんで?」 「萩原さんに見せられるスタイルじゃないから」 「関係ないよ、そんなの」 「重要なことよ」 「そうかな」 「それでね、おわびにごちそうするから、ごはん食べに行きましょう」 「うーん・・・、そうだな、ごちそうはいいから中華料理でも食べに行こうか。水着姿は次回の楽しみってことで取っておくよ」 「うん、それと、もう一つわがまま言っていい?」 「なに?」 「中華街は行きたくないな」 「どうして?」 「どうしても」 そういうなりゆきで、俺とサトミはホテル最上階の珠江飯店で食事をした。どうせこのホテルの部屋を予約しているのだから、中華街にこだわる必要はない。 「ちょっと、犬預けてる友だちに電話してくる」 そう言ってサトミは席を立った。 窓越しに見下ろす海側の夜景は意外と暗い。ベイブリッジの明かりも地味だし、行き交う船もまばらで、そこに漆黒の海があることを改めて感じさせてくれる。 島育ちの俺は、夜の海の怖さをいやというほど知っている。父親にしかられて放り出された海は、気が遠くなるほどに暗かった。泣きじゃくりながら「ごめんなさい」を繰り返した少年時代。思い出したくない。 「ごめんなさい・・・、今日、泊まれなくなっちゃった」 戻ってきたサトミが言った。 「えっ、なんで?」 「預けてる犬が熱出したみたいなの。友だちに迷惑かけられないし」 「じゃ、俺一人でこのホテルに泊まるの?」 「ほんとにごめんなさい」 サトミは一体どういう暮らしをしているのか。どんな犬を飼っているのか。どういう友だちがいて、どんな部屋に住んでいるのか・・・。 これまで触れないで通り過ぎてきたこと。聞かなかったこと。聞きたくなかったこと。そういうものの全てを知りたくなった。そんなことどうでもいいから好きだった時期は終わり、全部ひっくるめて好きでいたい気持ちが膨らんでいる。 これは寝た子を起こすことなのか。はたまた破滅への道か。 カードは引いてみないとジョーカーかどうかわからない。ジョーカーを引く可能性のないゲームなんてないはず。 闇の海が最上階まで迫ってくるような気がした。一人にはなりたくなかった。
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