「甘い夜なら」 第一章
健治は南の肩を抱き、その道を歩き始めた。十年前には何十回と歩いたその道であったが、まさか南とこうして二人で歩くとは、夢にも思っていなかった。 「銀杏の木、十本あるじゃない」 「そうだね、四、五本かと思ってた」 無軌道に生きていた頃には全く目に留まらなかったその木であるが、『銀杏並木を歩きたい』という彼女と二人でそこに立つと、その道もまんざら捨てたものじゃない。 若き日に外した道のその先の 銀杏並木を君と歩かむ 再会は偶然だった。 「彼氏いるの?」 「ううん、いない」 そして、全てはこの言葉から始まった。健治がもう結婚していることを南は知っていたが、それは何の意味も持たないことであった。 健治も美しくなった南に惹かれ、惹かれるままに南を愛した。 「俺、十年前と違う?」 「うん」 「どこか変わった?」 「わかんない。けど、今の健治が好き」 色も無く香も無き日々の三十路前に 「好き」と言われることの悦び 健治より二つ年下の南は、高校時代から目立つ存在であった。南も、それ以上に目立つ健治のことを知ってはいたが、学年が二つも違えば、超有名人の健治に近づくことなど、殆ど不可能に近いことであった。 「俺、高校の時、結構南のことが気になってた」 「嘘ばっかり・・・」 「本当だよ」 「けど、なんだかずっと昔から友達だったような気がするネ」 いくつ歳が離れていても、同じ単語で括れる人間であれば、多くを語る必要はない。 振り返れば全てはそこに弾けたる 我、YANKEEと呼ばれしあの頃 再会した頃は、『好き』という感情よりも、ただ一緒にいて楽しい遊び友達として南を見ていた健治であったが、逢瀬を重ねる度に、気持ちが傾いていくのがわかった。 「家のほう、大丈夫なの?」 「気にするな、家庭を壊してまで遊ぼうとは思わない」 「それならいいけど・・・」 しかし、家庭を守りながら南と遊ぶというのは、あまりにも都合が良すぎる。 健治は、『好き』という言葉を何度も飲み込んだ。 ふたたびの少年となりて君に言ふ 「好き」の二文字と我の勝手さ その日、健治は初めて南の部屋から出勤した。 「ネクタイ同じでいいかな」 「仕方ないわ」 「そうだね、じゃ行って来ます」 「気をつけてね」 エレベーターを降りて路上の人となった健治は、ひとつだけ明かりのついた南の部屋を見上げた。 やましさゆえの早朝出勤。 しかし、朝風の中、自分が南の香りに包まれていることに気付いた瞬間、それは悦びの陰に隠れてしまうこと。 朝焼けの明かりの中のやましさと その移り香に君を、君を想ふ 健治は、巷では『遊び人』ということで通っていた。自分では『遊び人』という意識もなく、ただ思いのまま、感情のままに体を動かしているだけであったが、世間の評価は、『女の噂の絶えない人』ということで一致していた。 南は、そんな健治が好きだった。 「もう帰るの?」 「ゴメン、今日はこれから行く所があるから」 「別のひとでしょ」 「・・・違うよ」 はからずも遊び人とされしこの身なれど 求むる道は違わざりけり 「南のせいで人生が変わった」 「変わった?」 「うん、変わった。ずいぶん妖しくなった」 「妖しくなった?」 今まで、いくら遊んでも変わることのなかった健治であったが、南は、その健治を変えるほどの魅力を持った女であった。 乾いた夜をいくら重ねても、それは時間の浪費だけであり、その事で『遊び人』とされてしまうのであれば、南に人生を変えられてしまうことの方がいいと健治は思った。 妖しくも美しくもある言葉の 赤き名残は肌の白さに 「健治が独身だったら、うまくいかなかったと思う」 「俺もそう思う」 制約の中の付き合いは、一見もどかしさばかりが目に付くが、実際は、その制約ゆえに、お互い近づき過ぎることなく、悪い所にも気付かないままでいることができる。 男と女は盛り上がるとろくなことがない。結末を迎えるために人を好きになるのであれば、これほど無意味なことはない。 理想とは天空を駆ける虹のごと 近づくほどに遠ざかりけり
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