「甘い夜なら」 第六章
今日子との出会いと別れ。健治にとってこの一ヶ月間は、一生にそう何回もない激しすぎるほど激しく、ただひたすら走り続けた時間であった。 しかし、南の時のような、少し自分が成長したような感覚は何もなかった。本当に得るものはなかったのか。それでよかったのか。 「あ、俺、元気?」 気がつけば受話器を握り、南に電話をかけていた。もちろん勝手すぎるということはわかっている。一ヶ月間の空白を許してもらおうなどとは思っていない。ただ健治は、自分のとった行動を南がどう評価するのか、それを知りたいだけであった。 「久しぶり、元気だった?私、嫌われたのかと思ってた」 「そんなことないよ。ゴメンね、連絡しないで」 「ううん、ぜんぜん大丈夫。健治いそがしいもんね」 「あ、あぁ。それで、ちょっと相談したいことがあるんだ。今から行ってもいいかなぁ」 「いいわよ、ちょうど私も話しておきたいことがあったの」 南のトーンは以前と何も変わっていなかった。健治は改めて南の偉大さを知り、自分のレベルの低さを恥じた。 数時間後、健治は、一ヶ月前と同じように南の部屋のチャイムを鳴らした。 「いらっしゃい」 何も変わってなかった。 健治は、いつも座っていた場所に腰を下ろした。 「あの、俺、実は・・・」 「ほかに女ができたんでしょ、それでふられたんでしょ」 「えっ、なんで、なんでわかるの?」 「やっぱり当たり?」 「う、うん」 「そういうものよ、男って」 並の女じゃないと思った。そして、今日子との一件を南に相談することがとてつもなくばからしく思え、健治は話すのをやめた。 「それで南の話って?」 「うん、あのね、私やっぱりあの人と結婚しようと思うの」 はじめて南の口から男の話が出た。 「えっ・・・、するんだ・・・、おめでとう」 いつかこういう時が来ることを覚悟していたはずの健治であったが、実際は、そんな心の準備などしたくはないという気持ちからか、予想以上の動揺であった。 「好きなの?彼氏のこと」 「あのね、好きとか嫌いとか、そういう感情はもうなくなってるし、ドキドキもしない。大切な人だけど毎日会いたいとも思わない。けど、だからこそ結婚の対象になるんじゃないかなぁ」 「そうかもね。いつもドキドキしてたら生活できないもんね」 「うん、それと彼を好きになるの、結構時間かかったから、悪い部分とか、かっこわるい部分を結構見たけど、全然気にならないのよね、そういうところ」 こう言って、南はコーヒーにミルクを注いだ。「砂糖抜きのミルクだけ」というコーヒーの飲み方は健治の影響だった。 その南を見つめながら、健治も、もう二度と見ないかもしれない南の部屋のコーヒーカップで、モカをすすった。コーヒーはモカというこだわりは、南の影響だった。 「それでね・・・、いやかもしれないけど、来てくれない?披露宴に」 「えっ、俺が?」 「そう、健治に見てもらいたいの、きれいなところを」 「まともに見られないんじゃないかな」 健治は、心の底から祝福したいという気持ちと、自分の所から飛び立ってしまう南を見たくないという気持ちの間で揺れていた。 「これで終わりにしなきゃね、恋愛関係は」 「そうだね」 「けど、全てが終わるわけじゃないでしょ」 「そりゃ、全てが終わっちゃうのは寂しいけど・・・」 ここに、ひとつの物語の終わりと始まりが凝縮されている。その始まりの一ページをどちらが開くのか。 「だったら来て、健治の好きなティファニーをつけてくるから」 「ティファニー?」 「そう、健治の好きな・・・」 健治は、ティファニーの香水をプレゼントした二年前のクリスマスの夜を思い出した。その日から、想い出は全てティファニーの中。 そのティファニーの中から、健治は恋愛をする上で、努力しなければならないことが二つあることを知った。それは、楽しい空間に付随する辛い時間を、いかに乗り越えるかということと、幸せな日々を、いかに続けていくかということ。 平凡な生活より、楽しい日々を選んだ以上、十の楽しみに付随する十の苦しみを乗り越えなければ遊ぶ資格はない。そう言いながらも、会えない夜には彼氏に嫉妬し、二人のテンションが下がり始めると、絶頂期だった頃の二人に嫉妬する。 幸せが大きければ大きいほど、その反動もまた大きいという自然の摂理さえ越えられず、自分の立場を忘れ、下り坂を反対方向に上ろうとしてもがくことは、男として最高にみっともないことである。 二つめの、幸せな日々を続けるということ。 幸せな日々はそう長くは続かない。長く続けようとすると、自ずとその日々は平凡と化してしまうというパラドックスを、どうすれば回避できるのか。 しかし、自分の気持ちに嘘をついてまでその高ぶりを抑え、結果として長く続くことが二人にとって果たしてすばらしいことと言えるのか。 終着駅のない恋愛であればこそ、燃え尽きることの意義は大きい。 その燃え尽きる過程で涙を流し、心が動き、動いた分だけ人は成長する。 「南ほどティファニーが似合うひと、他にいないんじゃない」 健治は立ち上がり、窓の外を見つめた。 南の部屋のFMからは、小沢健二の「銀杏並木のセレナーデ」 『もし君がそばにいた眠れない日々がまた来るのなら・・・』 南の部屋から見た朝焼けの銀杏並木。あの朝がまた来るのか、あの香りとともに。 その先が今とは違う夜ならば ティファニーのやうな甘い夜なら (完)
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