「甘い夜なら」 第五章
間違いなく南は気難しくなっていた。そして、健治はそこから逃げ出したかった。 それは、南の心のゆらぎが健治の包容力を越えてしまったからではなく、目的を求める女を包み込める男など、本当に結婚する相手以外にいるはずはないという教科書通りの展開になっただけである。 もがけばもがくほど、健治が描いていた道とは違う方向に行こうとしていた。 「また連絡するよ」 健治は、初めて次のデートの約束をしないまま南の部屋を後にし、その足で行きつけの美容室に行った。 それは、ただ二十日に一回の髪を切る時期が来たから行くだけで、少しは気分転換の意味もあったかもしれないが、それ以上のものは何もなかった。しかし、「デランジェ」という名のその店には、いわゆる看板娘の今日子という女の子がいた。 そう、その時は女の子だと思っていた。 真夜中のガラス戸を揺る春雷に 心も揺るる予感がしたぞ 「今日子ちゃん、今度飲みに行かない?」 「えっ?」 「あ、あのー、みんなで行こう。ツーショットはやっばりまずいよね」 「・・・いいですよ、二人でも」 「ほんとに?いいの?」 三年前、健治が「デランジェ」で初めて髪を切った時シャンプーをしてくれたのが今日子であった。 南より五つ年下の今日子はその頃から顧客のアイドルであり、いわば高嶺の花。今さら声をかけても・・・という状態の三年目、なぜか勢いで言ってしまったデートの誘いに乗ってくれた。 「来週の金曜日、八時に地下街の噴水の前で」 「ええ」 さらさらの髪のすきまの方程式 とくもとかぬも君の指から 「お客さん、今日はお祭りだから、この辺から動かないよ」 「そうだね、ここでいいよ」 健治は、タクシーを降りて走った。 渋滞の車の列を横切り、商店街へ入り、普通に歩くことさえままならない人波をかき分けて走った。間違いなく今日子のために走っていた。 十分ほど遅刻して健治が噴水広場に着いた時、ちょうど噴水を挟んで反対側の道から、今日子がハンカチで汗を押さえながら小走りでやってきた。 結局、二人とも仲良く遅刻。 「なんで祭りなんだよ」 「そうね、すごいタイミング」 「じゃ、行こうか」 「ええ」 はじめての約束までのドキドキは 祭り囃子の中に消えつつ 「今日子ちゃん、彼氏いるの?」 健治は、グラスの氷を指で回しながらこう言った。 「うん、いる・・・けど・・・つまんない」 その夜から、二人はもの凄い勢いで恋愛の坂道を上り始めた。それぞれを縛りつけるものから逃れるように。 恋愛はタイミング。 そしてその瞬間、健治は南から、今日子はつまらない彼氏から解放され、最高の時間を共有する。 「俺でよければ、ここに逃げてきてもいいよ」 「そんなの悪いよ」 「ぜんぜん悪くないよ。だって、つらい時に逃げるところって、その人にとって一番暖かい場所だろ」 「うん」 終電の出ずる十二時十分に 「マスターチェック」「おやすみなさい」 「よかった、また健治さんに会えた」 とにかく今日子は素直だった。 若いということもあるが、それ以上に誰にも染めることのできない、ありのままの、純粋な心を持っていた。 純粋な心はストレートに心に届く。そして、『毎日会いたい』という言葉に健治の心は動き、できるだけ今日子のために体をあけ、一緒に過ごす時間を増やそうとする。『これは束縛じゃない、今日子の気持ちに応えているだけだ』と確認しながら。 しかし、健治が一人で坂を駆け上がろうとした時、今日子の口から出てくる言葉は、『それって束縛してる・・・』 生身の人間であれば、急な坂道をいつまでも上り続けることはできない。その坂が急であればあるほど、急いだら急いだ分だけ必ず息切れしてしまう。そうなれば、あとは坂道を下りるだけ。 踊り場はない。 そしてその時、人は素直な心を恨む。そういう時の素直さほどキツイものはない。 素直さは時に哀しき刃となり 楽しき日々を切り裂かんとす 二人は、もう坂道を下り始めていた。いや、今日子だけが先に下りようとして、健治が頂上に取り残されていると言った方が正しいかもしれない。男はいつも取り残される。そして、ついテンションの高かった時と比較してしまい、言わなくてもいいせりふを吐いてしまう。 「あの時と違う・・・」 「でも健治さん、自分を逃げる場所にしてくれていいって言ったでしょ、逃げる場所って、いつまでもいるところじゃないと思う」 確かに言った。そう言った時点で、いわゆる「束の間の恋」を覚悟しなければならなかったのか。 雨が止み、男のさす傘の下から出ていく女と、雨が止んだことに気づかないまま、その傘をさし続ける男がいる。 ひとときをゆだねしことの悦びは 雨やどりといふはやり病か 「マスター、超ドライなマティーニちょうだい」 「了解・・・。ところで今日子ちゃん一緒じゃないの?」 「うん、もうダメみたい」 「えーっ、あんなに盛り上がってたのに?」 「そう、あんなに盛り上がってたのに」 「わかんないねぇ、女の子は」 「振り向かせるまでは簡単なんだけどね、頂上に立ってからが本当の勝負。まぁ、勝ち負けじゃないけど」 「あっ、そうそう、今日子ちゃんとツーショットの写真できてるよ」 「ん?あの時の・・・、いい顔してるよ」 E判の中で重ねし指なれど 焼き増す時の来ることはなく 「健治さん、つまんない前の彼氏と同じこと言ってる」 それが事実上の別れの言葉。 健治はとことん落ち込んだ。南との付き合いの中で、それなりに恋愛のことを学んだはずなのに、結局、それはその場限りのことだったのか。 ひとつひとつの恋愛で人間が大きくなり、そのことで惹かれる女性が増えることはあるかもしれない。しかし、ひとたびストーリーが始まってしまえば、過去の経験は全てクリアーされてしまう。『盛り上がるとろくなことがない』という教訓を、『後悔したくない』という思いが消してしまう。 恋愛の学習効果はない。 あるのはただ、そこに始まりと終わりがあるということだけ。 ひと夏をまとひし布の切れ端の 走り書きたる「いい夢見ました」
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