25. 縁側 (2001.07.09掲載)
先日、あるレストランで小さくスライスされたスイカを食べたが、これがちっともうまくなかった。もともと糖度の少ないスイカだったのかもしれないが、それだけではない。食べ方に問題があったのだと思う。 果物は縁側で食べるのがうまい。それもスイカ、柿などの種の飛ばせるやつ。スライスしたものを上品にテーブルで食べるのもいいが、プップッと種を飛ばしながら縁側でそいつらにかぶりつくのは独特な悦びを伴い妙に気持ちいい。それは、縁側というシチュエーションによる日本情緒の満喫ということでは決してなく、幼き日への回帰の悦びということではないだろうか。 大の大人がスイカや柿の種をプップッと飛ばすという、ちょっとだけはしたない行為によって幼少の頃の自分に帰る。泥遊びや落書きと同じ類の、成長と共に埋もれてしまった願望のようなものが、果物の種という小道具の力を借りて具現化する瞬間。そこに縁側が必要なのである。 中でも渋抜きの柿。湯抜きや、焼酎抜きが一般的であるが、ドライアイスでも抜ける。ところどころ軟らかく半透明になったオレンジ色の実にかぶりつき、ときどき種の名残のような固まりをツルンと飲み込めばもう最高。そして、プップッと庭に種を飛ばして心も過去に飛ぶ。現実からの逃避行か、はたまた夢に酔うひとときか。いやいや、柿は酔い醒まし。夢に酔うはずもない。ただ、誰もが持ち続けている少年の気持ちがちょっと出てしまっただけ。 ところで、我々が幼少の頃の気持ちを忘れていないように、甘くなった柿だって渋柿の頃のことを忘れていない。渋味の原因であるタンニンという物質は脱渋に伴って消えてしまったわけではなく、水に溶けないかたちになっただけで、ひっそりと渋抜きの柿の中に潜んでいるのだ。水に溶けない物質は味として感じることはない。つまり、水に溶けないかたちになったタンニンは渋味を感じない。さすがに昔を思い出して渋柿に戻ることはないが、渋味の本体を抱えたまま熟年を謳歌しているのが渋抜きの柿なのだ。 そんな柿の力を借りて我々は時に童心に帰る。 もしかすると、禁断の果実っていうのは柿のことだったのかもしれない。
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