37. くだらないかつお節のはなし（2001.10.04掲載）

「何回言うたらわかるんや、おい、亀吉」 　大坂は長堀のかつお節問屋、目近屋の大番頭、河内笹目近。 「すんまへん大番頭はん。堪忍しとおくんなはれ」 　そして、その目近屋の丁稚、亀吉。 「ええか亀吉、かつお節はこのかびが命なんや、このかびの色で値段が決まるよって、ように頭に叩き込んどきや」 　笹目近は樽の中から、びっしりとかつお節かびに覆われた本枯節を取り出し、亀吉の前に突き出した。その色は、まさに「枯」という言葉がふさわしい、ほんの少しだけ緑色がかった薄灰色であった。 　薄灰色が妙に溶け込む長堀界隈。 　その長堀が木津川に通じる少し手前に鰹座橋があり、その橋のたもとに目近屋はあった。 　時は享保九年（１７２４年）。 　このかつお節かびがアスペルギルス・リーペンスであるということなど知る由もない大岡越前守の発案で、「物価引き下げ令」が出された直後であった。 　高度経済成長期であった元禄時代を終え、安定成長期に入った享保の世であったが、米価の下落に相反する諸物価の高騰が石高制の武士に大打撃を与えようとしていた。 　といっても、この物価高はほとんど江戸を中心とする東国圏だけの問題であり、その原因が供給不足にあることも紛れのない事実であった。 　とにかく、物資は大坂から江戸へと流れていた。 　江戸で消費される油の７６％、醤油の７７％、繰り綿に到っては１００％が菱垣廻船などで大坂から下ってきたものであった。このため、通貨に関しても江戸の主力通貨である金と、大坂の主力通貨である銀とでは常に銀の方が優位となり、いわゆる「金安銀高」状態になっていたのである。 　法定レートである金一両＝銀６０匁に戻そうとする大岡越前守の策も、もはや焼け石に水であり、両替商の反発を買うだけであった。 　この状態から脱却すべく、大岡越前守は新田開発にも力を入れ、百万都市に見合うだけの生産力をつけ、大坂への物資の依存度を下げようとしたが、「江戸下し」の物量が減ることはなかった。 「ええか亀吉、かつお節に限らず、ものを江戸に送ることを『江戸下し』ちゅうんや」 「江戸下し？」 「そうや、よう覚えとき。せやから、あんたが仕入れてしもた三級品のかつお節は『江戸下し』にもならん下らんもんなんや」 「くだらんもん、でっか」 「そうや、くだらんかつお節や、くだらんかつお節。きいつけや」 　こう言って笹目近は手に取った本枯節を樽の中に戻し、目近屋の法被を翻して店に戻っていった。