58.全体が見えるということ(2002.03.04掲載)
先日、念願叶って帝国劇場で初めて舞台のお芝居なるものを観劇した。演目は「憎いあんちくしょう」。浅丘ルリ子、蟹江敬三、斉藤由貴、名古屋章らが演じる大正時代のドタバタコメディー。久世光彦氏の脚本・演出で、かつての名番組「寺内貫太郎一家」を思い出させる楽しい3時間であった。なぜだかわからないが元気が出た。これが生のパワーなのか。 もともと、テレビドラマと生お芝居との違いを見つけようと乗り込んだ帝劇だったが、その違いは第1幕ですぐにわかった。「あぁ、これはサッカーの試合を生で見る時と同じだ」。サッカーの試合をテレビで見ると、ボールを持っている選手の周辺しか映らない。テレビドラマもセリフをしゃべっている人の周辺しか映らない。 しかし、サッカーの生試合は全体の動きが見える。ボールを持っていない人の努力が伝わってくる。サッカーは11人でするのだ。生お芝居も全体の動きが見える。セリフのない人の迫真の演技が伝わってくる。これはリアル。これが真実。街にはセリフのない人もいる。つまりは全体が見えるということが生の感動につながっているのである。 全体が見えるということで思い浮かぶのは、狂牛病騒動に続く産地虚偽表示ですっかり信用をなくしてしまった畜産業界。悪いのはY社だけとも言い切れない。生情報で消費者に畜産の全体像を伝えなかった業界全体の怠慢もある。きれいにお化粧された最終商品のアピールだけじゃなく、オーバーオールを着た牧場のおやじが藁にまみれる姿や、解体工場で苦労する職人さんの汗なんかを生で伝えていれば、その感動が危機を救っていたかもしれない。 畜産業界を他山の石としてはいけない。ボールを持たない人、セリフのない人がいて一つの商品ができあがるということを再認識し、きれいなこと、きたないこと、もうかること、もうからないことの全てを伝えていかなければと思った。
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