1117.小言の流儀(2023.4.24掲載)
現在、中学校の保健体育の授業で武道とダンスが必修である。 武道は柔道、剣道、相撲など。これらの授業を通して「伝統と文化の尊重」という教育目標の実現を目指すらしい。 ダンスはよくわからないが、武道必修は大賛成である。 柔道の受け身はバイクや自転車で転倒した時に役立つし、相撲の番付からは実社会の厳しさが学べる。 今から45年前の中2の冬、体育の授業は2ヶ月間相撲だった。取り組みの結果がクラス内の番付に反映され、上位に名を連ねるのが楽しみだった。 ただし1日でも授業を休むと番付は下がり、またやり直し。これは口惜しかった。「さぼるな」という先生の叱責より効いた。休みたくないと思った。 以前、読売新聞の編集手帳に「叱責とは『いかに言わないか』の技術である」と書かれていて、八代目桂文楽の「小言の流儀」を紹介していた。 「小言の種をためておき、一番小さなことで、短く、大きく叱る…叱られる弟子は、こんな小さなことも師匠に見抜かれていたと知り、言われずに済んだ大きな小言の種も改まる」 なるほど。相撲授業の番付も文楽師匠の流儀も、ポイントは「叱られる側の動機付け」なんだ。追い詰めてはいけない。自らを改めるきっかけを与えるだけでいいのだ。 ということで、文部科学省に家庭科の授業で「だし取り」を必修とする案を提出したい。 料理の極意は、「見えないところで手を抜かない」ことである。だしの効いた料理のおいしさを知れば、自然と手間をかけるようになる。影の努力が実を結ぶことを体感し、自己啓発のきっかけが生まれるかもしれない。 ハンバーガー世代にだしの味がわかるのかという不安を抱きつつも、霞が関への提案を準備する今日この頃である。
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