128.食べられる狼の桃(2003.07.22掲載)
それは今から30年前の夏休み、母の実家に帰省した時のことだった。とある昼下がり、貧乏長屋で祖父と私が二人きりになった。祖父は私を流し台に誘った。 「トマトを食べないか」 二つ返事の私は冷蔵庫を目指して駆けようとしたが、祖父は私の腕を掴み、「トマトはここにある」と茶箪笥の引き戸を開けた。闇の中に真っ赤に熟したトマトが座っていた。少しおどろおどろしく怖い感じがした。 常温に置かれたトマトは当然のように生ぬるく、決してさわやかではなかったが、薄皮と一緒にかぶりついた味は深く、おいしく、暗いジントギ流し台の色と共に私の記憶に焼きついた。 「どうして冷蔵庫に入れないの」 2、3口かぶりついたところで私はたずねた。祖父は少し顔を曇らせてこう言った。 「冷蔵庫に入れておくと、お嫁さんに使われちゃうんだ。これはじいちゃんのトマトって書くわけにはいかないだろ」 その瞬間、祖父の置かれた立場、この家の住宅事情、嫁姑問題など全てのウミが見えた気がした。そのくらい10歳の小僧にだってわかる。聞くんじゃなかったと少し後悔した。 その1ヶ月後、祖父は他界した。 男二人のデザートタイム。思い出すに哀しい味。茶箪笥で追熟されたあの日のトマトはイタリア産のように旨く、チリ産のように甘く、タイ産のように酸っぱかった。祖父の全人生を詰め込んだ味だった。 カロチンやリコピンなどの効果で生活習慣病の予防が期待できるトマト。畑の太陽。赤の恵み。医者いらず。世間がトマトの二つ名に浮かれるほどに、私はあの日の祖父を思い出してしまう。 そして、本稿のちょっと不気味なタイトル「食べられる狼の桃」は、トマトの学名Lycopersicon esculentum Mill.の直訳なのであります。
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