542.二宮尊徳(2011.10.24掲載)
ケータイを見ながらふらふら自転車をこぐ中高生を見ていたら、小学一年の担任だった森先生の言葉を思い出した。 「薪を背負って勉学に励む二宮金次郎は偉い人ですが、本を読みながら道路を歩くのは危ないからやめましょう」 かつて、ほとんどの小中学校に設置されていた二宮尊徳像であるが、交通安全の観点から撤去が進んでいるという。確かに危険だし、時代にそぐわない苦学のシンボルは生徒の意識改革につながらないのかもしれない。 ならば、授業でしっかりと二宮尊徳の偉業を伝えればいい。 相模国の農家の長男に生まれた尊徳は早くに両親を亡くしたが、苦学の後、没落した自身の家を二十歳そこそこで再興する。その能力が小田原藩主に買われ、支藩である下野国の農村の建て直しを任され成功。その後、六百余りの農村の復興を手がけ、晩年は幕府の役人に取り立てられた。尊徳は、今で言う「名うてのコンサル」だったのである。 そのコンサル手法は報徳思想といわれ、根本は「分度」と「推譲」。つまり、人間は一年の衣食がこれで足りるという上限を決めて分度とし、その中で生活して余りは他人に譲るという考え方。尊徳が酒で人の労をねぎらう際、本人の酒量に応じたサイズの杯を選ばせた「分度」のエピソードも合理的でおもしろい。 もちろん尊徳自身の暮らしも質素だったが、身長180センチという巨躯を維持するため、すりつぶした大豆を混ぜた味噌汁である「呉汁」を好んで食べたらしい。 こんな尊徳のストーリーが政治的に利用され、修身の教科書や学校の銅像として世に広まっていったのである。 そして、思いっきり尊徳に感銘を受けてしまった神戸の実業家が1911年に開校したのが報徳学園で、その2代目校長には尊徳の孫、二宮尊親が就任した。 尊徳像には目もくれず、もちろん報徳も分度も知らず登校していた青き日を反省しつつ、分をわきまえた行動を肝に銘じた今日この頃である。 ================================================================ 二宮尊徳情報の出典は、「おたふく」2011年第45号です。
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