671.昭和の葡萄(2014.5.26掲載)
近代短歌の世界において、葡萄はしばしば青春性と生命のみずみずしさを表現する道具として使用される。 時に儚く、時に力強く。はじけそうでいて、案外かたくな。そして、新鮮でありながら暗く弱々しい一面も見せる。ブドウではなく、葡萄というおどろおどろしい漢字がぴったり。 「童貞のするどき指に房もげば葡萄のみどりしたたるばかり」春日井健 昔の巨峰は今より少し小粒で酸っぱく、汁の色も毒々しいばかりに濃かったような気がする。白いシャツを紫の葡萄汁で汚し、母に叱られたことが何回かあった。 長老の忠告を無視して釣り上げた「池の主」と呼ばれる巨鯉を調理した際、その血が手について落ちないという、映画「妖怪百物語」の怖いシーンを思い出した。 「とびやすき葡萄の汁で汚すなかれ虐げられし少年の詩を」寺山修司 幼時、巨峰を食べた記憶といえば病気の時ばかりである。ふだんは種なしぶどうの先駆者、赤いデラウェア。 病気の時に巨峰を食べるのは粉薬を飲むため。母が巨峰の種を取り除き、そこに苦くて飲みにくい粉薬を入れて私に飲ませたのだ。白い粉を巨峰に詰め込む母の後ろ姿と、それをツルンと飲み込む食感は今でも鮮明に思い出すことができる。 「若き日の母が葡萄の種取りて種のくぼみに粉薬置く」Mかつお 最近は巨峰もほとんど種なしになった。種なし葡萄づくりは日本発祥。稲がバカみたいに伸びて枯れる「馬鹿苗病」の原因物質として1938年に発見された「ジベレリン」に、葡萄の種を消す働きが見つかったのだ。 植物の成長促進ホルモンであるジベレリンで種が消えるという逆転の発想。そんな日本人の知恵に感謝しつつも、「思い出を詰め込む場所がなくなっちまったぜ」と、ツルリ一粒飲み込んでみた。 今の巨峰は粒がでっかく、甘くてものすごくおいしい。 ふと、昭和の切ない食卓を思い出して、喉と胸がつっかえそうになった。
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