676.日本人の野菜感(2014.6.30掲載)
帝塚山大学の稲熊博士は、日本人には野菜に関するこだわりが3つあると論文誌上で語っている。それは、「色で分類する」「葉、果、茎、根それぞれの部位を利用する」「季節で食す」の3つである。 色で分類…緑黄色野菜、淡色野菜という分類は日本独自であり、色で栄養素の摂取を想起させる食育は理にかなっている。米国でも、食事バランスガイドで色分類を取り入れ始めた。 葉、果、茎、根…大地の恵みに感謝し、すべての部位を一番おいしい状態で利用するのは日本人の得意技。 季節で食す…春の山菜、夏のトマト、秋ナスに冬大根。こんなぜいたくは日本にいればこそ。 ここにもうひとつ加えてほしいのが「昭和の食卓」である。 茹でたジャガイモだけを家族4人で囲んだ夕食、出回り始めたマヨネーズに馴染めずいつも通り醤油をかけて食べた千切りキャベツ、焼きナスの皮をあちちと剥く母の後ろ姿。 そして、祖父と食べたトマト。 それは今から40年前の夏休み、母の実家に帰省したとある昼下がり。祖父は私を貧乏長屋の流し台に誘った。「トマトを食べないか」二つ返事で冷蔵庫を目指した私の腕を掴み、祖父は「トマトはここにある」と茶箪笥の引き戸を開けた。闇の中に真っ赤に熟したトマトが座っていた。 生ぬるいトマトは、暗いジントギ流し台の色とともに記憶に焼きついた。「どうして冷蔵庫に入れないの?」「冷蔵庫に入れるとお嫁さんに使われちゃうんだ。じいちゃんのトマトって書くわけにはいかないだろ」祖父は少し顔を曇らせてこう言った。 聞くんじゃなかったと後悔した。そのくらい10歳の小僧にだってわかる。 男二人のデザートタイム。思い出すに哀しい味。茶箪笥で追熟されたあの日のトマトはイタリア産のように旨く、チリ産のように甘く、タイ産のように酸っぱかった。祖父の全人生を詰め込んだ味だった。 飽食ニッポンでこんなセンチメンタルジャーニーは笑われるかもしれないが、それが私らの時代であり私らの野菜感なんだ。 切ない食卓は、時に健康成分より胸にしみるのである。
|
column menu
|