724.変化に対応する(2015.6.15掲載)
朝一番の便で羽田空港や伊丹空港に降り立つと、5分で540円の靴磨き屋さんに直行するビジネスマンをよく見かける。 クルマ移動が多い田舎暮らしからスイッチを切り替え、足元をきれいにして都会での仕事に臨む気合の表れに違いない。 江戸時代の上京もそうだった。 日本橋を目指す旅人は、最後の宿場で草鞋を新調した。東海道の品川宿、中山道の板橋宿、日光街道の千住宿、どれも日本橋まであと2里だから徒歩2時間。ここで1足8文(150円)の草鞋を購入し、花のお江戸に乗り込んだのである。 ところが街道が整備された当初、甲州街道の最後の宿場は日本橋まで4里の高井戸宿だった。4時間はちと遠い。 これを逆手に取った高井戸の「履物屋長兵衛」こと長兵衛さん(知人M君のご先祖様)、2足の草鞋を販売する戦略で売り上げを伸ばした。 「九里四里うまい十三里、江戸まで四里はちと遠い。兄さん、二足買っていきない」 「そだねぇ、くたびれ草鞋じゃ男がすたる。二足もらおうじゃないか」 こんなやりとりで2足戦略は成功したのだが、いい話はそう長く続かない。甲州街道開通100年後の1698年、江戸幕府が日本橋まで2里の地点にある内藤家に場所を提供してもらい、「内藤新宿」を開設したのだ。一番新しい宿場だから「新宿」となった。 となると、当然のように高井戸宿で草鞋を購入する旅人はいなくなり、「履物屋長兵衛」は衰退の一途をたどることになる。古典落語だと絵師か左甚五郎がやつれた長兵衛さんを訪ね、草鞋代がわりに残した作品の「草鞋」が勝手に歩き出し、その作品見たさに客が戻ってくる、てな展開もあるのだろうが現実は厳しかった。 長兵衛さんは店をたたんだ。 ただ、知人M君はしっかり変化に対応し、某スポーツ用品メーカーで靴の開発に携わっている。 そのM君が定年後に高井戸の生家でスポーツ靴の販売店を繁盛させて一矢報いる、なんて粋なストーリーを期待してしまう今日この頃である。
|
column menu
|