812.われにツクシを(2017.3.20掲載)
タイトルは愛唱する寺山修司の「われに五月を」に対するオマージュである。 きらめく季節に たれがあの帆を歌ったか つかのまの僕に 過ぎてゆく時よ 夏休みよ さようなら 僕の少年よ さようなら ひとりの空ではひとつの季節だけが必要だったのだ 重たい本 すこし雲雀の血のにじんだそれらの歳月たち なぜツクシかというと、寺山作品に「土筆と旅人すこし傾き小学校」というツクシを詠んだ句があるから。 祖父母と同居していた我が実家において、ツクシの卵とじは典型的な春の家庭料理だった。石手川の土手沿いに群生するツクシを採取し、夜なべで袴を取ってアク抜きして卵とじ。貧しさの中にも味わいのあるおふくろの味だった。 ところが、小学校に入学して最初の給食で出てきたのはクリームシチュー。 「なんじゃこれは」 自身の食生活データベースに微塵もない味、香り、食感。ツクシの卵とじと対極をなす乳臭い西洋の味。外食することなどほとんどない時代、見たことのない西洋料理を目の前にした私は完全にフリーズした。 「先生、食べられません」 当時の給食で「おのこし」が許されるはずもなく、当然のようにポツリ放課後の食卓となった。涙も出なかった。 もちろん今は何の問題もなくクリームシチューを口にすることができるが、いかな高級フランス料理店のそれでも、喉元を通過するときには必ずあの光景がよみがえる。そして、誰にも気づかれないように暗い思い出をゴックン飲み込むのだ。 最近では、逆に古典的な和食を食べたことのない児童が増え、給食で和食メニューを出すとおのこしが増えるという問題が発生している。ツクシの卵とじ、おいしいのにね。 「すこし傾き小学校」というフレーズが学校給食の課題を暗示しているかのようだが、いまこそツクシを給食で広めたいと願う思い出の旅人なのである。
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