814.松山容子先輩(2017.4.3掲載)
わが実家の納戸には、松山容子さんバージョンのボンカレーのホーロー看板が眠っている。たぶん、ボンカレーが発売された1968年当時の骨董品。 ただし、オークション目的で温存しているわけではなく、近所の八百屋さんが改築する際、父がもらってきて捨てられずにいただけ。というのも、モデルである松山容子さんが、父と私が卒業した高校の同窓だから。 水原弘さんのアース、大村崑さんのオロナミンCと並んでレトロネタにされる松山容子さんのホーロー看板であるが、レトルトカレーを世に広めた大塚食品苦闘の軌跡ともいえる。 なにせ世界初のレトルト食品。素うどん1杯が60円の時代に1個80円のボンカレーは今ひとつ反応が鈍く、問屋筋もなかなか扱ってくれない。そこで大塚の営業マンは町の小さな八百屋、肉屋、乾物屋を訪問し、ボンカレーを置いて回った。そして、商談成立の証としてホーロー看板を打ち付けたのだ。その数9万5千枚。 地道な販促を重ねた結果が実を結び、1973年には年間1億食を突破。その後リニューアルを重ね、現在はボンカレーゴールドとしてレトルトカレー500億円市場の先頭を走っている。 そんなボンカレーの初代版(もちろんパッケージは松山容子先輩)、今でも沖縄限定で売られていることは知る人ぞ知るご当地食品ネタである。発売当時と同じスペックで、沖縄のためだけに生産しているのだ。 なぜ初代の味が沖縄でウケるのか、味を数値化してくれる味覚センサーという機械で分析してみた。結果、最新のボンカレーゴールドと比較して、初代版はかなりコク味の数値が低かった。 一時期、レトルトカレーは専門店のコク味を再現することに注力し、ライバル間でコク味の深さや強さを競い合っていた。どうもそれが酷暑の沖縄に合わなかったんじゃないかな。初代版のあっさり味が食べやすかったんじゃないかな。 めんつゆにわさびや生姜などの薬味を入れるのもこれと同じ理屈。薬味がコク味を低減させることで、夏の盛りの喉ごしを爽やかに演出してくれる。 ホーローの旅の果てに沖縄にたどり着いた松山容子先輩。 どこでも生きていける柔軟性、という母校の校風を体現してくれた大先輩なのである。
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