「風流物語」 十.おでんとそばまき小
「これ、お年玉」 ウメばあさんはこう言って、新年になって始めてのお好み焼きが焼けるのを待つ僕と津山くんの前の鉄板の上に、おでんを三本ずつ置いてくれた。 その、こんにゃくと竹輪と卵は、鉄板の周りを囲む黒光りの木枠に、今にも溶け込みそうな程煮込まれた色艶を放っていた。 「ありがとう、おばちゃん」 「大学受験がんばるんぞな」 「うん」 僕と津山くんは、昔は砂糖の入れ物だったに違いないプラスチック製の容器に入った辛子を、スプーンに取った。今では殆ど見かけなくなった、柄の部分がねじれていて、手元に赤いプラスチックの取っ手が付いたノスタルジックなあのスプーンである。 そして、鉄板の上に置かれたおでんにつけた。風流には、おでんの取り皿らしきものもないため、お好み焼きにソースをかけるように、おでんに辛子をのせる。風流の辛子は辛子味噌でなく、純粋な辛子であるが、鉄板の上のおでんを見るとついつい太っ腹になってしまい、ソースの感覚で辛子をかけてしまう。 「きたきたきたーっ」 津山くんも、それをやってしまったらしい。真夏のかき氷の、あの眉間に突き刺さる激痛を彷彿させ、夏なのか冬なのかわからなくなってしまいそうな辛さであるが、かき氷の激痛では涙は出ない。 僕も少し涙ぐんできた。 でも、泣いてもいいかな、と思った。 一本五十円のおでんであるが、親戚にもらった五千円のお年玉より、ずっと嬉しかった。 「おばちゃん、この竹輪よう味がしみとるなぁ」 「朝早うに仕込んだけんねぇ」 あったまる。 風流の味に染まったおでんを食べながら、風流に染まっていく自分を感じる。 そして、そばまき小。 受験なんかどうでもよくなってしまうこの瞬間、絶妙のタイミングで永野くんが暖簾をくぐった。 「まいどっ、寒いなぁ」 「げげっ、もしかしてまたこれ?」 津山くんの麻雀パイを混ぜるポーズに、永野くんは自分の肩を揉みながらうなずいた。 既に、福岡の私立の芸大に推薦入学が決定している余裕の永野くんは、毎日のように僕たちを麻雀に誘う。僕も津山くんも麻雀は嫌いじゃないし、おまけに永野くんの家が学校からの帰り道にあるもんだから、ついつい寄ってしまう。そして、家に帰るのが夜の九時とか十時とかになってしまい、季節外れのカミナリを食らうというパターンである。 「やっぱり、そろそろ勉強せんとまずいんじゃないん?」 四百五十番以上に浮上したことのない津山くんが、四百番台前半をキープしている僕の同意を求めた。 「そうそう、これ食べたら帰って勉強せんといかん」 僕はこう言って、そばまき小に一列だけ切り目を入れた。最初に全部切り目を入れてから食べるギャルのようなやり方では、最後の方のそばまきが冷めてしまう。やはり、少しずつ食べる分だけ切らなければいけない。 「今日土曜日やけん、とりあえず帰って勉強して夜中に来たらええやん。一時頃でも。トイレ行こ・・・」 こう言って、永野くんは風流のトイレに入った。 もちろん、風流には客用のトイレなど無い。ウメばあさんやよしおさんが使うのと同じトイレを使うのだが、なぜかそのトイレは、暖簾をくぐったすぐ右の土間に面した所にあり、客のために作られたような佇まいであった。 「どうする、行く?」 僕は、津山くんの顔をのぞき込んだ。 「出て行くん寒いけど、まぁええわぃ。冬は朝ゆっくりできるし」 冬は夜が明けるのが遅く、六時頃でも真っ暗である。自分の部屋の窓と友達の部屋の窓を往復する僕たちにとっては、五時頃から明るくなってしまう夏よりも、多少寒くても闇の長いこの季節の方が都合がいいのである。 「けど、冬は夢の中で喧嘩したら必ず負けるんよ、夏は絶対勝つのに。布団をだいぶ掛けるけんやろか」 血の気の多い津山くんならではの夢である。 しかし、夜、抜け出すのに都合がいいとか、夢の喧嘩で負けるとか、殆どの高校生が経験できない部分で冬を感じることができ、何となく得した気分である。 「まっとるでー」 トイレから出た永野くんは、そのまま入り口の戸を開け、外へ出ようとした。 「あっ、ちょっと、あんたとこどうやって上がるんやったっけ」 津山くんが呼び止めた。 「裏の右側の窓の下の塀に上がって、物置の屋根の右端に左足をかけて、といを持ちながら右足を二列目の瓦に乗せたら誰でも上がれる」 「オッケー」 風流の常連高校生の家には、各々部屋に入るためのマニュアルがある。これらは全て一ノ瀬くんが開発したものだ。 「あっ、それから、今日はおにぎりせんべい持って来たらいかんで」 「なんで?」 「こないだおにぎりせんべい食べながら麻雀したら、砂糖と醤油でパイがネチョネチョになって、一枚取ったら三枚位いっぺんに取れてしまうネチョパイになったんよ」 「あっそう、そしたら、かっぱにしょうか?塩パイならええやろ」 「そやね、横綱あられでもええけど・・・。それと、ハート型の源氏も忘れんといて」 その夜、無事家を抜け出した僕たちは、「ナイトショップいしづち」で落ち合い、食糧を買い込んで永野くんの家に向かった。 二階から抜け出す時にベランダのセメントでこすったのか、津山くんの皮ジャンの胸のあたりが白く汚れていた。 「ちょうど一時じゃ」 自転車を置き、食糧を持って永野くんの家の裏に回った。 町内で唯一明かりのついた永野くんの部屋が、僕らのオアシスだ。 まず津山くんが、マニュアル通りのパターンで物置の屋根に左足をかけ、右足を瓦に乗せた。部活動をやめて体重が増えたせいか、物置のきしむ音が妙に気になる。 そして屋根の上にあがり、部屋の中に目を遣った。 裏返されたこたつ板の、新緑のターフに映える象牙の積み木。その緑と白と黄土色のトリオは、まさしく深夜のオアシスと呼ぶにふさわしい彩色を放っていた。 そして、そのこたつの中に永野くんはいた。 「いらっしゃい」と言わんばかりに窓の方に向かって座る永野くんは、しかし、寝ていた。 「永野くん寝とるで。こっそり入ってびっくりさせたろ」 津山くんは、まだ左足を物置の屋根にかけたばかりの僕を見おろして笑った。 そして、津山くんがその部屋の窓に手をかけた瞬間、半泣きのような顔になるのがわかった。 「窓が開いてない」 「なんで開いてないんよ」 「開けるん忘れとったんやろか」 窓を少し叩いてみたが、永野くんは固まったままであった。 真冬の午前一時十五分。 凍った風が、横綱あられを入れた白いビニール袋に刺さる。 このまま凍ってしまうんじゃないかと思った僕と津山くんは、自転車の所まで戻り、ナイトショップで買った全然味のしみていないおでんを食べた。 「うまないけど温もるね」 ちょっとだけ体が暖まった勢いで、僕たちは国道を渡った。
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