「風流物語」 九.紫のそばまき小
「おばちゃん、おはよー」 今日も遅刻して風流である。 卒業を半年後に控え、来るべき下宿生活を見込み、一人で起きる練習をしているのだが、ただ風流に行く回数を増やしているだけという気がする。 パンチパーマのごつい顔のくせして、未だに母親に起こしてもらうというのはあまりにも情けなく、一大決心をしたのだが、どうしても無意識のうちに目覚ましを切って寝ているらしい。 ベルが切れないように、スイッチをガムテープで固定しても、電池を抜いてまた寝てしまっているし、寝床から一番離れた部屋の隅に目覚ましを置き、その途中にロープを張って必ずこけるようにしても、倒れたままの状態で寝てしまっている。 ということで、今日は寝る前に机の引き出しの奥に目覚ましを隠し、朝、どこで鳴っているのかわからず探すうちに目が覚めるというシナリオだった。ところが、目覚ましを探すためにひっくり返した全ての引き出しを片付けるのに四十分もかかってしまい、気が付いたら遅刻していたという次第である。 「おばちゃん、どうやったら朝早う起きれるんやろ」 「どうやったらいうても、わたしゃ、どないしても四時に目が覚めてしまうがな」 「聞くんやなかった」 「そうそう、ええやり方がある」 「どんなこと?」 「寝る前に水を五合ぐらい飲むんよ、そしたら、朝便所に行きたなって目が覚める」 「そんなんで大丈夫かなぁ・・・」 「まぁ加減せんと、夜中に目が覚めてしまうけど、この歳でおねしょすることもなかろ」 「そらそうやけど・・・。遠慮しとく」 「ええ考えやと思うけどねぇ」 そう言いながら、ウメばあさんはかつお粉をお好み焼きの上にかけた。 「まぁそのうち起きれるようになるやろ、授業も殆ど補習やし、出ても出んでも一緒よ」 そう言って、僕は出来上がったそばまき小に更にソースをかけた。 本来、お好み焼きに必要以上にソースをかけるのは、お好み焼きそのものの味がわからなくなるということで、作った人に対しては失礼に当たる行為なのだが、吉野屋の牛丼の汁を多めに入れてもらう「つゆだく」のようなもので、より庶民の味に近づくような気がして僕は好きだ。 ちなみに、風流のソースは、とんかつソースとウスターソースを七対三で混ぜたものである。秘伝の配合と言わんばかりに、ソースを作るときは鉄板の陰に隠れ、密かに調合するのだが、何せ狭い店である。鉄板の陰など無いに等しい。それでも、この配合をウメばあさんから聞き出すのに二年かかった。 聞いた当初は、家で作ってみたりもしたのだが、風流の味は全く再現できなかった。そこには何か隠された秘密の調味料でもあるのでは、という憶測も飛んだりしたが、結局、風流菌で発酵、熟成しているということで落ち着いている。 「ごちそうさん」 食べ終わった僕は、三時間目から授業に出ることにした。それにしても暑い。暑さとソースのかけすぎで、喉がカラカラである。 校門をくぐった僕は、真っ先にジュースの自動販売機に向かったのだが、タイミング悪く、二年生の体育の授業が終わったところにかち合ってしまった。 五十円玉を握りしめた汗だくの生徒の列で、自動販売機が見えない程であったが、僕が近づくとなぜか順番を譲ってくれ、すぐにジュースを買うことができた。優しい後輩たちに囲まれる微笑ましいひとときである。 もちろん、ファンタグレープ。色素たっぷりの危ない紫が、青春真っ盛りの僕の胸を染める。 保健室の先生も、ファンタグレープの色素は体に悪いと言っていたが、悪いと聞くと余計に飲みたくなるのがこの年頃、多い時は一日に三本も飲んでしまい、舌が紫色に染まる程である。 そして、紫といえば、今やヤンキーの定番色。僕はヤンキーではないが、紫は大好きである。 「紫や黒の服を着るようになったら要注意」と、生徒指導の本に書かれているそうである。確かに紫色は、ヤンキーかどうかを見分けるリトマス試験紙のような役目をしているが、古人にとってはやんごとなき色である。好きになって悪い色ではない。 「ええなぁ、グレープがあって」 オーカメ牛乳の自動販売機しかない西田高校の一ノ瀬くんが、いつもぼやいている。 どんなに恰好つけても、紙パックの牛乳をストローでちゅーちゅーやったのではさまにならない。しかも、牛乳は体にとって最高の飲み物である。とかく不健康なものに憧れる年頃の僕たちにとって、まさに牛乳は、ファンタグレープと対極をなすものなのである。 牛乳の自動販売機しかないということは、些細なこととはいえ、青春の一ページにソースの絡まったそばがこびりつき、次のページが開かなくなってしまったようなもので、何とも情けない。 こんなことを考えながら青春の色を飲み干した僕に、体育教官の中山が声を掛けてきた。 「ぶらぶらしよんやったら体育科コース来んか、楽しいぞ」 「体育科コース?」 「そうや、教育学部の体育学科を受ける生徒だけ集めて、四時間全部体育するんや」 四時間全部体育=楽しい、という方程式が、僕の頭の中で渦を巻いた。 「行ってみます」 「そうか、そうか、それはええ。心身共に健康になるよ、うん」 中山の言葉が妙にぎこちなかった。 そして翌日。実際やってみるとかなりきつい。一時間目マラソン、二時間目サッカー、三時間目バスケット、四時間目バレーボール。傍目には楽しそうな授業であるが、とんでもない荒行である。しかも、周りはみんな、インターハイ出場という輝かしい実績を持つ、ばりばりのスポーツマンである。ついて行ける筈がない。 三日目には体と肺が言うことを聞かなくなっていた。 「先生、明日から普通科コースに戻ってええですか?」 「何か言うた?」 「明日から普通科コースに戻りたいんですけど」 「なに?」 完全に中山の罠にはまってしまった。 「勝手に休んだら卒業ささんぞ」 「蹴上がりできたけん、体育の単位あるでしょ」 「じゃかましい」 三年生にもなって、こんなしごきを受けるとは夢にも思っていなかった。 野球部の練習が嫌で、自ら足に鉄アレイを落として練習を休んだ奴もいたが、僕にはとてもそんな真似はできない。できたとしても、せいぜい足がすくんで指の上にでも落ち、爪が紫色になるのが関の山である。紫色はいいのだが痛いのはゴメンだ。 いろいろ思案した結果、髪を切るという作戦に出ることにした。「男は外見じゃない」と口癖のように言っている国士舘大出身の中山は、スポーツ刈りに弱い。爽やかな頭で謝れば許してくれるに違いない。そう考えた僕は、すぐに散髪屋に足を運んだ。 最後にパーマをかけてから一ヶ月以上経っている。スポーツ刈りにしても毛先は巻かない筈だ。 「先生、これで勘弁してください」 「先生、これからは真面目に勉強します」 「先生、卒業してもパーマはあてません」 いろいろなパターンを練習しながら歩いた。 夕焼けに染まれない結構上の方の空が、紫色に見えた。
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