「風流物語」 十四.最後のそばまき小
昭和五十七年二月二十八日・・・。 今日は、いつになく鉄板の前が暖かく感じられた。 僕は、もう五、六回は見たであろう三年前の週刊大衆にまた目をやり、もう少しで暗記してしまいそうな「三重ノ海横綱昇進」の記事を目だけで追いながら、そばまき小が焼けるのを待っていた。 「あーあ、この番組もうやめたらええのに」 一緒に来た津山くんが、白黒テレビで「びっくり日本新記録」の「水中自転車競争」を見ながら、あきれ顔でこう言った。確かに轟二郎は、優勝した「逆立ち相撲」までがチャレンジボーイとしてのピークであり、番組自体がマンネリ化してしまった今となっては、もはや出たがり以外の何ものでもない。 「けど、『おじゃまんが山田くん』もいまいちやし・・・」 ヤクルトファンの永野くんも鉄板の前にいる。 風流の白黒テレビで映る民放は二局だけであり、選択肢はこの二つしかない(もう一つ選べるとしても、「それゆけレッドピッキーズ」であるが・・・)。 日曜日の午後七時。水曜日であれば、ビートたけしの、「テレビに出たいやつみんなこい」を見ながら、鶴太郎の下着音頭で盛り上がるところだが、チャレンジボーイではそうもいかない。 「まいどーっ、さむいなー」 そこへ突然、一ノ瀬くん登場。右手に抱えたヘルメットの中から、アイドル雑誌の「ボム」が覗いている。 「どしたん、三人そろて」 「あんたこそ寒いのにバイク乗ってどこいっとったん」 「うん、犬井くん家まで送ってきた」 「もしかして『モガ』から?」 「そう、まだ懲りずに行きよる」 先々週の日曜日に、「モガねえちゃん」が結婚していることが発覚して以来、僕たちはあっさりと「モガ」に見切りをつけ、また、 「竹」に舞い戻っていたのだが、「モガねえちゃん」に入れ込んでいた犬井くんだけは、未だにその熱病から冷めないらしい。 「大丈夫かいな、明日の卒業式」 口ではこう言っているが、全然心配していない津山くん。 「あんたら仲がええなぁ、これからも仲ようせないかんよ」 そばまき小とうどんまき大の形をいつになく気にしながら焼くウメばあさんが、小学生の仲良し四人組を諭すような口調でこう言った。確かにウメばあさんから見れば、小学生も、僕たち高校生も、「仲良し」という同じ言葉で括れる存在なのかもしれない。 その「仲良し」たちは、ウメばあさんの言う通り本当に良く遊んだ。ここに来ていないあとの四人と合わせて合計八人の大所帯ではあったが、本当に、この鉄板にはお世話になった。 そして、僕が二回目の停学になった時、担任の川内先生に「一番の親友の名前を一人言え」と言われた時のことを思い出した。「親友は七人いるから一人だけ言うことなどできない」と言い張る僕に、「そんなことはない、一人だけ言え」と頭ごなしに怒鳴る川内先生。 一人の名前を言うまでは家に帰さないとまで言われ、それでも親友は七人であることを曲げず、夜中の一時に父親が迎えに来たことがあった。 「けど、卒業したら、みんな外へ出るし、どうなるかわからんなぁ」 永野くんの言葉に、津山くんも七回目の坊主頭を撫でながら頷いた。 「そうそう、夏休みに帰ってきたら、いきなり向こうの言葉になっとったりして」 「さみしいねぇ」 永野くんと津山くんは福岡、一ノ瀬くんは東京に行くことが決まっているが、二次試験が終わっていない僕だけは、まだ進路が未定であり、こう答えるしか仕方がなかった。 「けど夏休みに帰ってきて再会したら、なんか涙ぐむんじゃなかろか、懐かしなって」 「そうそう、抱きついたりして」 進路の決定している連中の会話は軽い。 「そんなことないぞな」 突然、ウメばあさんが、お好み焼きを焼く手を休めてこう言った。 「あんたら小学校から一緒に遊びよんやろ」 「そうよ」 「ほやったら、半年振りに会うても三年振りに会うても、懐かしいことなんかない」 「そんなもんかなぁ、ようわからんけど」 一ノ瀬くんの言葉に僕も同感であった。ウメばあさんは何を根拠にこう言っているのだろうか。尋常小学校の同級生に、七十年振りで会っても懐かしくないのだろうか。 「まぁ、そのうちわかる」 ウメばあさんはこう言うと、焼き上がったそばまき小とうどんまき大をヘラでパンパンと叩いた。何十回、いや何百回と聞いたこの音であるが、今日はやけに胸に響いた。 そして、手を腰に当て、丸くなった背中を伸ばしながら、ウメばあさんは天井を見つめた。 「あーあ、胴が痛い。もう疲れた。あんたらみたいに遊びたい」 「・・・」 ウメばあさんの強烈な言葉に一同絶句。 「遊ぶいうて何して遊ぶんよ」 「まぁ、これからぼちぼち考えよわい」 こう言ってウメばあさんは、いつもの手つきでそばまき小とうどんまき大にソースをかけた。隠居する気など更々ないらしい。 「けど、明日は店開けといてよ、卒業式終わったらみんなで来るけん」 「わかっとるよ、卒業式じゃろ、おめでとう」 「ありがとう。けど、その言葉、明日全員揃た時に言うて」 「はいはい」 ウメばあさんは、かつお粉の入った缶を手に取り、いつもより多めにかけてくれた。 昭和五十七年三月一日・・・。 『勝手ながら暫くの間休業させていただきます 風流』 卒業式から直行した僕たち常連八人は、暖簾の代わりに目の前にあるこの張り紙を、ただ、ただ見つめるだけであった。 ウメばあさんに渡すつもりでみんなで買った、栗田金物店特製のヘラ十本セットが、ずっしりと肩に重い。 そういえば昨日、「夏休みに帰ってきて、うどんまき食べる」という津山くんに、ウメばあさんが、「若いもんは一回出ていったら戻ったらいかん」と、少しきつい口調で諭していたことを思い出した。 一度走り始めた男は、振り返ることさえ許されないというのか。風流に帰ってくるということと、振り返るということは、全く別の次元のような気がするのだが・・・。 この張り紙の向こうにウメばあさんがいるのなら、それを聞いてみたい。 もしかしたら開いているかもしれないこの風流の入り口の戸には、しかし、誰も手をかけようとはしなかった。帰るところも、行くところもなくなってしまった津山くんも、ただ立っているだけであった。 それは、もう想い出となってしまったここでの出来事をそのままの状態にしておきたいという思いからか。それとも、この戸を開けなければ、全てを想い出にすることが出来るという願いからか・・・。 いずれにしても、一歩前へ踏み出さなければならない状態に変わりはなく、この八人が「風流」の二文字を胸に刻み、それを心の礎として歩くことを願ってウメばあさんが店を閉めたのであれば、もはや、その戸を開ける理由など何もない。 そして、八人全員が目の前の状況に納得し、その状況を、自分自身で作ろうとする本当の卒業アルバムにしまい込めそうな気がした瞬間、入り口の戸の向こうから、聞き慣れたあの音が聞こえてきたような気がした。 お好み焼きをパンパンとヘラで叩く、あの音が聞こえたような気がした。 (完)
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