「風流物語」 三.真夏のそばまき小
停学で短くなっていた髪が、ようやく人並みの長さにまで伸びた時、世間は、ラジオ体操へ向かう子どもたちの声で目覚めてしまう季節を迎えていた。 時代に取り残されたような佇まいを見せる風流にも、この季節は忘れずにやって来てくれる。 夏のお好み焼きは暑さとの戦いである。当然、風流にはクーラーなどという気の利いた文明の利器はなく、「買った時は白だった」というウメばあさんの主張が空しく聞こえる程黒ずんだ壁掛け型の扇風機が、無機的にただ首を振っているだけである。 「冬はぬくうてええけど夏はいやよ、夏になるともうやめたなる」 この季節になると、ウメばあさんはこの言葉を三十回以上口にする。確かに、唯一の扇風機はウメばあさんのいる方向には風が行かないように取り付けられているし、鉄板に一番近い場所に立っているのもウメばあさんなのだから、僕たち以上に暑い筈だ。汗を拭きながら懸命にお好み焼きを焼くウメばあさんの顔を見ていると、倒れやしないかと心配になってくる。特に、バーナーを新品に取り替えた今年の夏は、去年以上に暑さが伝わってくると思う。 このバーナーを取り替えるきっかけとなった事件が、二週間程前に起こった。 その日は土曜日で、僕はサッカー部の練習前に、風流は初めてだという先輩を誘ってそばまき小を食べに来ていた。そのそばまき小、十二時二十分頃頼んだのだが、五十分頃になってもまだ焼けない。 「練習一時からなんやから、もう食べな間に合わん。生でもええけん食べよ」 この非情なる先輩のお言葉に、僕は風流の「禁じ手」である生ものに、冷やし中華以来久しぶりに挑戦する羽目になってしまった。 もともと、風流のバーナーは昭和三十年頃のものを使用しており、火力が弱く焼けるのに相当時間がかかっていた。今まではそのことをあまり気にしていなかったが、冷静に考えると確かに時間がかかりすぎる。 幸い、その日の練習は別段何の問題もなく終えることができたが、このことを気にしてか、ウメばあさんは大金をはたいてバーナーを新調してくれたのである。 こんなバーナーの一件を思い出しながら、僕は冷蔵庫に水の入ったボトルを取りに行った。 「水、製氷室に入れといたよ」 よく冷えるようにと水を製氷室に入れてくれるのは嬉しいのだが、出すのを忘れて凍ってしまい、結局、生ぬるい水道の水を飲む羽目になるといったことがよくある。 「おばちゃん、凍っとるよ」 今日もそうだった。 けど、夏、お好み焼きを食べる一番の楽しみは、何といっても食べ終わって店の外に出た時の、別世界のような涼しさである。 「ごちそうさん、ありがとう」 と言って外へ出て、 「すずしー」 と言うのが夏のパターンである。 今日もその感動を味わうべく、食べ終わった後の汗だくになった体を炎天下のアスファルトの上に置いた。 涼しかった。 暑い暑いと言いながら、また風流に来てしまった。 今日は先客が五人程いて、「扇風機より俺の方が古い」という顔をして座っている白黒テレビを囲んで、かなり盛り上がっていた。 テレビでは夏の甲子園が放送されていて、その日はちょうど決勝戦で、横浜の愛甲と早実の荒木が投げ合っているところであった。 この季節になると風流は一段と賑やかになる。それは、この土間が、風流の常連おっさん軍団による野球トトカルチョの集会場になるからである。 「頼むよ愛甲ちゃん、カルチェのええバッグ見つけとんや。まぁ、荒木くんは一年生やから来年もあることやし」 去年の夏、箕島高校の優勝で、ダンヒルのライターを買ったプロパンガスの配達人山本さんがこう言うと、 「だめだめ、愛甲は学校で悪い事ばっかりしよるらしいで。やっぱり真面目な荒木ちゃんが勝つよ」 と、春のセンバツで、ロレックスの時計を質屋に入れたペンキ屋の倉本さんが応戦するといった感じで、僕たち高校生には想像もつかない大人の世界を覗くことができる、楽しい季節なのである。 この、風流のおっさん軍団の平均年齢は三十七、八歳で、二十年ほど前に、僕たちと同じように南田高校に通いながら、風流に入り浸っていた連中である。卒業しても、そのままずるずると風流に出入りして今に至ったということなのだが、僕にしてみれば、二十年後の自分たちの姿を見ているようでぞっとする。 けど、この年になってもここに集まるということは、やはり、風流には人を引き付ける何かがあるのかもしれない。つまり、それがそのままウメばあさんの魅力ということになると思うのだが、その辺がどうも僕にはまだ理解できない。 そんなことを考えながら、そばまき小を食べていた僕の耳に、山本さんの歓喜の声が飛び込んできた。 「よっしゃ、横浜優勝や。愛甲ちゃんは偉い。ええよ、少々悪うても。倉吉北高みたいに、眉毛剃って野球しよるのもおるんやから」 どうやら横浜高校が優勝したらしい。山本さんは大喜びで、「肉入り玉子入りそばまき大」を注文した。 「牛肉買うてくる」 ウメばあさんは、こう言うと近くの肉屋に買い出しに出た。風流では肉入りは滅多に出ないため、注文を受けてから肉を買いに行く。僕も肉入りを注文してみたくなった。そばまき小を食べる前だったら、懐が暖かくなった山本さんにおごってもらったのに、残念だ。 暫くして、山本さんの肉入り玉子入りそばまき大が焼けた。 「最近、お好み焼きにマヨネーズかけるのがはやっとるらしいねぇ」 山本さんは僕に向かってこう言った。お好み焼きにマヨネーズはもう常識だが、僕たちは、ウメばあさんに遠慮してマヨネーズのことは口にしていなかった。それを、山本さんがあっさりと喋ってしまった。僕たちは、ウメばあさんがバーナーの一件のように、また気を遣って小袋入りのマヨネーズを買いに走るのを心配していたのだが、その心配をよそに、 「マヨネーズあるよ」 と、ウメばあさんは、冷蔵庫から家庭用のキューピーマヨネーズを出してきた。 「これこれ、これが実にうまい」 山本さんは、チューブの先から太さ一センチのマヨネーズを出し、お好み焼きの上にそれをたっぷりかけた。どうやら山本さんは、普通のお好み焼き屋では、小袋入りのマヨネーズが出てくるということを知らないらしい。しかし、風流にはマヨネーズのチューブが似合いすぎるほど似合っている。ウメばあさんが小袋入りのマヨネーズを買いに走るという心配は、僕たちの思い過ごしだったようだ。 横浜高校の優勝ですっかり調子の良くなった山本さんは、また僕に話しかけてきた。 「ええか兄ちゃん、お好み焼きは箸で食べるもんやない。このヘラで切って、そのままこのヘラで食べるんや。ヘラに乗せて食べると形が崩れんし、ヘラの冷たさでお好み焼きがちょうどええ温度に冷めるんや」 確かに、僕たちもお好み焼きを箸で食べたことはなかった。お好み焼きはヘラで食べるものと思いこんでいたのだが、そこに、そういう奥深い理由があるとは知らなかった。 「しかし、ギャルが来た時には、箸もないと困るなぁ。ギャルにヘラで食べてもらうわけにもいかんし」 ギャルが来るような店でないことを、誰よりも良く知っている筈の山本さんが、無意味な心配をしている。確かに風流には、どこの食堂にでもあるものがない。 風流には割り箸がない。
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