「風流物語」 四.前夜祭とそばまき小
「おばちゃん、あさっての日曜日運動会なんやけど、見に来てくれんかなぁ」 いつも、裸足にサンダル履きで学校に来るいちが切り出した。彼の本名は林田というのだが、その風貌が座頭市にそっくりなことからこう呼ばれている。 「運動会なぁ・・・。行くのはええけど、ござの上に座るんは疲れるし」 ウメばあさんは、こう言いながらシャリシャリのかき氷を僕たちの所に運んでくれた。 僕たちが風流で食べるかき氷は、いちごでもメロンでもみぞれでもない。全部だ。風流にある六種類のシロップを全部かける。一つだけかけても、全部かけても同じ百三十円なのだから、金のない高校生は全部かける。もっとも、今日は駅前のパチンコ屋の「ボクシング台」で大勝ちしたいちのおごりだから気が楽だ。 僕たちは、終わろうとしている夏を引き留めるかのように、かき氷をむさぼった。そしてその後、決まってやって来る眉間の激痛。まるで、脳の血管にドライアイスでも注射されたような、そしてある種の後悔を伴うこの痛みを感じることで、「夏はまだ終わっていない」と自分自身に言い聞かせているのかもしれない。 「綱引き合戦が二時からあるんやけど、それだけでも見に来てよ、ここに来る連中みんな白組やけん」 「そうやなぁ、それだけ見にいこか」 「ごちそうさん、絶対来てよ」 いちが二百六十円を払って外へ出た。 ゴム製の筈のいちの健康サンダルが、アスファルトの上でカチカチと金属音を立てている。パチンコ大好きのいちの健康サンダルの底には、ふんづけたパチンコ玉が、その網目の中にびっしりと詰まっているのだ。担任の先生もこの事は知っているが、現行犯でないので何も言えない。 「そやけど、ウメばあさん呼ぶからには絶対赤組に勝たないかんなぁ。なぁいち」 「うん。けど、赤組には北の湖が五人もおるから手ごわいで。まぁ、千代の富士もあの小さい体で大関になろかいうんやから、体格は関係ない。気力よ。それに絶対赤組に勝つええ考えがあるんよ、ええ考えが」 いちが「ええ考え」を出すとろくなことがない。この間も「ええ考えじゃ」と、校内宝くじで一儲けしようとしたのが先生に見つかってしまい、反省文十枚を書かされたばかりであった。 「大丈夫なんやろな、今度は」 「まかせといて。何なら教えよか、この考え」 「かまん、心臓に悪い」 いやな予感がした。 「モスクワに行けんかった日本代表の分までがんばるで」 といういちの訳の分からない叫びを無視して、僕は再び夕暮れの校門をくぐった。 運動会の楽しみは、本番よりもむしろ一週間位前からの、その準備期間にある。この一週間は、特別に八時まで学校に残ることが許可され、校内は、アーチ作りや仮装の打ち合わせをする生徒たちの熱気に包まれる。 といっても、実際真面目にこういった作業をする生徒はごく一部で、僕たちを含めた殆どの生徒は、ぶらぶらしたり、他のブロックの連中や、教室の隅でこそこそやっているカップルを冷やかしたりして、充実した時を過ごす。 保健室の先生から聞いたのだが、冷やかすという言葉の語源は、江戸時代に紙漉き職人たちが、煮て溶かした紙の原料が冷えるまでの間、吉原へ行って遊女たちを格子越しにからかって帰ったことから、この職人たちを、「紙を冷やかしてきた連中」という意味で冷やかしと呼んだことに由来するらしい。 この語源からすると、アーチのペンキが乾くまでの間、カップルを冷やかす連中は、差詰め現代の紙漉き職人だなと思った。 しかし、教室の隅のカップルに代表されるように、我が南田高校は、男女交際に対して異常に甘いところがある。この間も、仲良く並んで登校してきたカップルに体育教官の中山が、 「こらっ、手ぇつないで歩かんかぁ」 と怒鳴ったという話を聞いた。全く何とも楽しい学校である。 このような恵まれた環境にありながら、僕たち風流の常連高校生には彼女のいる人間が一人もいない。男同士で遊ぶ方が楽しいものだから、彼女を作ろうという気すら起こらないのだと思う。女子が多いというだけの理由で、みんなの反対を押し切って文系コースに行った津山くんが、 「何で反対してくれんかったん」 と涙ながらに訴えるのだから間違いない。 「免許証の手入れがある」 今年になって三度目の怪情報が、運動会当日の朝の校内を疾風のごとく駆け抜けた。 この情報には必ず、「手入れの前に自首すれば、免許証を預けるだけで処分はない」というおまけが付く。 手入れというのは、生徒課の先生が東署と西署に行き、免許取得者リストから南田高校の生徒を抜き出し、その全員を謹慎処分にするというものなのである。つまり、その前に自ら免許証を差し出せば、処分を免れるという仕組みになっている。 入学してすぐにバイクの免許を取った僕は、今までに五回程この情報に頭を痛めたが、「そんなこと調べられる筈がない」と自分に言い聞かせて、今日まで免許証を手放さずにいた。しかし、今回は、「今度こそ間違いない」という消息筋の保証付きである。 「いち、出しに行く?」 「そやなぁ、嘘やと思うけど、このまま運動会に出ても気が重いし」 「出そか」 十分程考えて、僕たちは津山くんと矢中くんにも声をかけ、担任の川内先生のいる理科室に向かった。 ギアチェンジのせいで、爪先から七センチ程の所が黒ずんだ、白のエナメル靴を履いている津山くんの足取りは重い。毎日バイクに乗っている彼を誘ったことを半分後悔しながら、僕は理科室の戸を叩いた。 「先生、免許証持ってきました」 「あぁ、免許証ねぇ。うん・・・」 川内先生は、僕たちの差し出した免許証を手にとって、徐にアフリカツメガエルの標本に目を遣った。 「運動会、頑張ろうな」 「はぁ?」 鉄拳のかわりに飛んできた変な言葉。そして、先生は免許証を僕たちに差し出しながら、もっと変なことを言った。 「免許証、返しとく。安全運転しなさいよ」 「えーっ、ええんですか?」 僕たちは耳を疑ったが、どうやら本当に返してくれるらしい。 「あっ、ありがとうございます」 気が変わらないうちに教室を出ようと、そそくさと入り口の方に向かう僕たちの背後から、川内先生の言葉が追いかけてきた。 「今日、打ち上げするの?」 「ええ、まぁ一応」 今夜は、二番町の泰平魂という中華料理屋で、大宴会をする予定になっていた。 「するんはええけど、今日はあれ我慢しょうな」 川内先生の言う「あれ」が酒を指しているという事はすぐにわかった。なにせ、酒が絡んだ一回目の停学で、川内先生に大迷惑をかけている。 「は、はい」 「頼んだよ」 今日の川内先生は妙に優しい。しかし、免許証を返してくれたということは、酒を飲まないということとの交換条件を出したということになるのだろうか。ということは、免許証を受け取った僕たちは、その条件を飲んでしまった訳で・・・。 「泰平魂に電話して、ビール全部ジュースにかえてもらおか」 理科室の戸を閉めると、僕はこう切り出した。 「何を情けないこと言うんよ、みんな楽しみにしとんのに」 津山くんの言葉に、後ろを歩いていた矢中くんもいちも、右に同じという顔で頷いた。 「けど、川内先生もう定年やし、何か最近、急に元気なくなってきたみたいやし・・・」 「甘いなぁ、川内先生の定年と俺らの宴会と何の関係があるんよ。見つからんかったら一緒やん・・・。もうええ、その話やめよ、はよ着替えてグラウンドいこ」 津山くんたちの出ていった教室の壁にもたれて、僕は暫く動けないでいた。 (僕たちのことを信用してくれている先生を裏切るわけにはいかない) その瞬間、ウメばあさんと話している時のような素直な気持ちになれたような気がした。あんなに反抗していた先生なのに・・・。 (泰平魂に電話してビールをキャンセルしょう) こう思って急いで公衆電話に行き、受話器を握った僕の耳に、店員の意外な言葉が飛び込んできた。 「先程、津山様という方から、ビールをキャンセルしてくれとの御連絡がありましたが・・・」
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