「風流物語」 七.灰皿とそばまき小
「お前は、こんな物で女を釣るのかぁーっ」 地響きのような体育教官中山の叫びと共に、生米への正拳突きで鍛えた鉄拳が僕を襲った。 「バキッ」 左手に持っていた風月堂の菓子箱は見事にひっくり返り、その中身が三〇一ホームの脂ぎった床の上に散乱した。一瞬、頭がボーッとなり、そしてカーッとなった。 (なんで殴られんといかんのじゃ) しかし、すぐに中山が国士舘大の空手部出身であることを思い出し、僕はしゃがんで背中を丸めながら、散乱したお菓子を拾い集めた。 廊下を歩く生徒たちが、何の騒ぎかと集まって来ているのが背中越しにわかった。とんだ昼休みである。 拾い終わっても顔を上げられないくらい恥ずかしさがこみ上げていた。 津山くんが言うには、その背中からは、公園のベンチで牛乳瓶片手にジャムパンをかじる、あの「特捜最前線」の大滝秀治のような哀愁が滲み出ていて、結構渋かったということであるが、そんなこと何の慰めにもなっていない。 「どしたんで」 中山が教室を出ると同時に、三〇一ホームの田岡くんが声を掛けてくれた。 「カンパしてくれた人にお礼してくれいうて、一ノ瀬くんから預かったお菓子配っとったんよ」 僕は腰を上げながら答えた。 「先週の日曜日、一ノ瀬くんのバイクの後ろに乗って風流行ったやろ。そん時、整備不良で切符切られて八千円の罰金が来たんよ」 「その罰金をカンパで集めたんか?」 「そうよ、半分の四千円。恐喝じゃないよ」 田岡くんが「それ、恐喝じゃないの?」と言いたそうな顔をしていたので、僕は先に釘を刺しておいた。 しかし、田岡くんには事情をわかって貰えたものの、内容が内容だけに中山には本当のことが言えず何とも悔しい。言い訳ができないということは、お菓子で女の子を釣っていたということを認めた訳で・・・。いまどき、そんなことする男などいるわけないのだが、いるわけのない男にされて殴られたということを考えると、どうにも腹の虫が治まらず(そういう時のお決まりのパターンで)、午後の授業をさぼることにした。 授業をさぼる時は、先にいなくなっていない限り、津山くんと矢中くんを誘う。そして、行き先は風流ではなく喫茶店である。風流でもいいのだが、授業をさぼって風流に行くとウメばあさんの機嫌が悪いし、弁当を食べたばかりで、お好み焼きを食べる気にもならない。それに、今日みたいにむしゃくしゃした時は、思いっきり煙草が吸える喫茶店の方がいい。 ということで、行きつけの「竹」という喫茶店に足を運んだ。 「あれっ、一ノ瀬くんの自転車じゃない?」 矢中くんの指差す方を見ると、「竹」の入り口の横に、スポーツタイプの自転車のくせに、西田高校の変な校則のため、片側のスタンドじゃなく、荷台を持ち上げて固定する例のおばさんスタンドを付けた一ノ瀬くんの自転車が停めてあった。 荷台にくくり付けた緑色の「西田高校バッグ」が燦然と輝いている。 おばさんスタンドと緑のバッグだけで、西田高校らしくなるから不思議だ。それはまるで、音階からレとラを抜くだけで沖縄民謡になってしまうあの感覚に似ている。 「ひさしぶりーっ」 一ノ瀬くんは五十円のインベーダーゲームをしながら、左足を上げてこう言った。 「ひさしぶりーっじゃないで、あんたのせいでえらい目におうた」 「あー、名古屋撃ち失敗」 一ノ瀬くんは、飲み終わったカルピスのグラスを八十五度に傾け、そのカルピスの絡まった氷を口の中に落とした。 「カルピスは、この最後の氷が一番うまい」 ジャリジャリ音を鳴らしながら氷をかじる一ノ瀬くんに、僕は中山に殴られた一件の一部始終を話した。 「すまんっ。このお土産で許して」 僕たちより一足早く修学旅行を済ませたばかりの一ノ瀬くんは、お土産の灰皿をテーブルの上に置いた。 日頃から喫茶店の灰皿集めに精を出す僕たちは、修学旅行先で入った喫茶店の灰皿をお土産にするという約束をしていたのだ。 この、灰皿をがめるという行為は勿論悪いことであり、犯罪になる訳だが、こと喫茶店の灰皿に関してはその範疇に入らないという気がする(というか、勝手にそう思いこんでいる)。最初から取られることを想定し、安物の灰皿しか置かない店もあるし、見つかっても 「千円です」とか言って、特に咎めない店もある。 そして、喫茶店から持ち帰った灰皿であるが、別に使うという訳でもなく、ただ並べて部屋に飾るだけである。しかし、何年かしてこの灰皿を眺めた時、 「そんな時代もあった」 と僕に呟かせる、いわばタイムマシンのような役を演じてくれるのではないかという期待はある。 それだけに、できるだけ沢山の時をこの灰皿に閉じ込められるように、できるだけ劇的な状況で、できるだけ多くのものを失敬したいと考えている。 事実、二年程前にミスタードーナツから持ち帰った砂糖つぼ(灰皿ではないが)を眺めるその度に、太いズボンの中に隠した砂糖つぼが逆さまになり、自分の歩いた後にできたグラニュー糖の白い道が、ミスタードーナツの入り口まで続いていたという何とも漫画のような事件が鮮明に蘇るのだ。 「しかし、この灰皿『京都』とかいう字が入っとったりして、喫茶店の灰皿にしてはえらい凝っとるなぁ」 一ノ瀬くんがテーブルの上に出した灰皿は、いかにも民芸調の造りで、明らかにお土産にされることを目的として作られたという雰囲気が漂っている。 「いやぁ、実はそれ喫茶店で取ったんじゃなくて、ホテルの売店で取ったんよ」 「売店?」 「うん」 「それ、万引じゃないん?」 「酔っ払っとってはっきり覚えてないんやけど、どうもそうみたい」 こう言うと、一ノ瀬くんはとぼけた顔で新しいショートホープを開け、前半分だけ銀紙を剥がし、中指でフィルターをはじいて最初の一本を取り出した。 「しかし、きょーび中学生でも万引なんかやらんで」 「そやなぁ、俺も反省しとる。けど、西田高校はあんたとこみたいに自由行動がないけん、喫茶店に行く時間取れんかったんよ」 南田高校は一日半もの自由行動があると聞いているが、西田高校はそれがなかったらしい。自由行動がなければ、修学旅行というてんこ盛りの超人的日程上、喫茶店に抜け出すのは殆ど不可能に近いものがある。 「しかし、天気のええ日にカルピス飲んで、喫茶店でぼーっとするのは最高に気持ちがええ」 あっさり話を逸らされたが、確かに一ノ瀬くんが言う通り、このゆったりとした時間の流れが妙に心地よい。 沢山の思い出を詰め込みたいというその灰皿の前で、思いっきり時間を無駄にするという一見相反する情景であるが、実際はその時の流れにたゆたい、浪費することができる高校生の特権というものを確認することで、一つ一つの思い出の密度を高くしているのではないかと思う。 ぼーっとしていても結構腹が減るもので、やっぱり風流に行くことにした。
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