「遠い空」 第二章 1ピースの寄り道
二人目のクライアントは、母親に付き添われてきた中学二年生の少年、長倉隆次君。今日で二回目のカウンセリングで、目的は学校に行かせること。全国で六万五千人といわれる中学生の登校拒否児の一人だ。 やはり父親が東洋薬品の社員であるが、新薬研究所に勤務する父親は、現在、ドイツのマックス・プランク研究所に留学中で家にはいない。母一人子一人の暮らしである。 「隆次君こんばんは。どう、元気出てきた?」 「うん」 「隆次、ちゃんと返事なさい。もう、すみません先生、ほんとにこの子ったらもう、大事な時期だっていうのに三カ月も学校休んじゃって」 「あのー、お母さんは下の喫茶店で待ってていただけますか」 子供の問題のほとんどが母親の問題である。しかも、ほとんどの母親がそのことに気付いていない。 とにかく母親のエネルギーは凄い。その全てを一流大学合格という目標に向けて放出するわけだから、子供の方はたまったもんじゃない。学歴偏重社会である以上、学歴以外の物差しで物事を測れない母親を責めるのは酷かもしれないが、子供にとっては時代が悪すぎる。 「隆次君、家では何やってるの?」 「ジクソーパズル」 「へえー、ジグソーやってんだ。おもしろい?」 「うん、おもしろいよ」 「何時間くらいかかるの?」 「千ピースで三〇時間くらいかな。白黒だともっとかかるけど」 「やっぱり最後の一ピースが一番感動する?」 「最後のピースなんて全然感動しないよ。それより、最初のピースの方がドキドキする。これから始まるぞって感じで」 最初のピースに感動することは正常である。長倉君は、意外と早く学校に行けるようになるかもしれない。 「学校には熱中できること、ない?」 「・・・」 言いたいことはいろいろあるが言葉にならない、そんな印象を受けた俺は、箱庭療法を実施することにした。箱庭療法は、ユング派の心理学者によって日本に紹介された療法で、物事をはっきりと言葉に出さないことをよしとする日本人にマッチし、広く受け入れられている。 「隆次君、おもしろいゲームをしよう。この箱の中に街を作るんだ」 砂を入れた57×72×7Bの箱にミニチュアの玩具を置いて、クライアントの好きな情景を作ってもらう。ミニチュアは、動物、乗物、野菜、人物、建物などで、たいていの街の風景が揃っている。 「好きなものを置いていいよ」 「どれでもいいの?」 「ああいいよ」 二十分ほどして、隆次君は一つの街を完成させた。 ジグソーの影響だろうか、建物は全て壁際に置かれている。そして、デパートの前のバス停に人が列を作っている。が、驚いたことに、バスを待つ人が、全て上下逆さまに立てられている。つまり、頭が砂の中に埋もれて逆立ちをしている状態になっているのだ。始めて見るケースだったが、俺は特にそのことには触れずにカウンセリングを続けた。箱庭療法は、その結果を分析して治療に生かすためのものではなく、作る過程で起きるクライアントの心の動きによって自然治癒力を発揮させるための道具だ。 「友だち何人くらいいるの?」 「うーん、本当に親友って呼べる友だちは一人もいない。みんな、うわべだけっていうか」 「うわべだけ?」 「そう、悩みとか打ち明けたりは絶対しないし、本当のことも言わない。嫌われるのイヤだから」 それにしても今の時代の少年はかわいそうだ。嫌われないように友だちに気を遣い、内申書のことを考えて先生に気を遣い、そして、自分に将来を託す親たちにも気を遣う。まるで大人と一緒だ。 俺たちの少年時代には考えなくてすんだことが、彼らの心の中の大半の部分を占めているのではないか。これじゃ、神経症にもなるだろうし、学校に行きたくないと思うのも当然かもしれない。 「友だちのこととか先生のこととか考えると頭いたくなっちゃって、耳鳴りがして、体動かなくなっちゃうんだ」 「うん、別に行かなくてもいいじゃない、学校なんか」 「そうなんだけど、母さんうるさいから、家にいても落ちつかない」 「そうかー。じゃあ、お母さんの存在ってどんな感じ?」 「そうだなぁ、目覚まし時計のような感じかなぁ。鳴ったら鳴ったでうるさいけど、1日に1回は鳴ってもらわないとね」 中学生の言葉にしては大人びている。俺の中学時代にこんな言葉を吐けるやつなんていなかった。つまりは何も考えずに生きていけた時代と、そこらじゅうのこと全てを考えないと生きていけない時代との差が、まだ青き中学生を哲学者にしているのではないか。 「じゃあ、今日は終わりにしようか。下の喫茶店まで送るよ」 「いいよ先生、一人で行くから」 「そうはいかないよ」 俺は長倉君の肩に手をやり、階段を降りた。引退するまでバレー部のキャプテンだったというだけあって、体格はいい。しかし、体育会系の中学生が不登校になるということも、俺にとっては意外なことだ。 「じゃお母さん、またあとで電話します」 俺は母親に長倉君を返し、一緒に喫茶店を出た。 もう七時を過ぎているが、部活か塾帰りだろうか、四、五人の女子中学生が、ひなびた商店街で完全に浮き上がっているプリクラの前にたむろしている。よく見ると髪に花飾りを付け、顔はヒリヒリしそうな色に焼けている。これは部活焼けじゃない。部活焼け特有の切なさがない。そして、その傍らの公衆電話では、せわしげにベルメッセージを送り続ける女の子がいる。 もし、中学時代の俺がこの場にタイムスリップしたら、この情景をどう捉えるだろうか。プリクラやポケベルをコミュニケーションの手段として利用するだろうか。 しかし、よく考えてみると、プリクラ手帳のトモダチも、ベル友のトモダチも、それからインターネットのトモダチも、ほとんどがはっきりとした素性を知らないまま、とりあえずトモダチしているという匿名希望のつき合いだ。トモダチが友だちに進化することがあるのだろうか。あるとすれば、それはそれですばらしいことだし、そのためのポケベルなら大いに結構だ。 「あっ、それからお母さん」 「はい」 「隆次君に、ジクソーパズルやりたいだけやらせてあげてくださいね」 「はぁ、でも、そんなことばかりしててもー」 「時間の無駄だって思ってる?」 「えー」 「無駄なことなんてひとつもないですよ、お母さん。ほら、ジグソーだってそうでしょ、サイズが大きくなるほどわけの分からないピースが増えてくるけど、無駄なピースなんてひとつもないですよね」 「ええ、まあ」 「最後には、ぜーんぶひっついちゃいます」 「どうなんでしょうねぇ。まぁ、先生がそう言うなら、好きなようにやらせますけど」 好きなことはやらせるんじゃなくて、本人が勝手にするものだ。本当は勘違いしている母親の方をカウンセリングしたいのだが、そうもいかない。どんなにバカでも、お金を払ってくれる以上はお客様であるという構図も、ここにはある。 今夜は少し考えさせられるカウンセリングだった。自分の昔のことを思い出したりして・・・。 明日、千ピースのジグソーに挑戦してみよう。それも白黒のやつ。
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