「遠い空」 第三章 だるまさんがころんだ
師走を迎えたとはいえ、多摩川はいつもと変わらない流れで川としての営みを繰り返している。自転車で都内に出ていた俺は、その前かごに正月用のしめ飾りを入れて多摩川に架かる丸子橋を渡った。 丸子橋は四年前から架け替え工事中であるが、阪神大震災以前に完成した下り用の橋に比べると、現在工事中の上り用の橋は明らかに橋脚の太さが違う。三倍は違う。 橋の上から見下ろすと、河川敷の公園で冬休みの小学生たちが楽しそうに遊んでいる。遠目には昔と変わらない光景であるが、よく見ると子供たちが持っているものがゲームボーイであったり、ミニ四駆であったりするわけで、正月の風景が変わるのも、ごくごく自然なことかもしれない。 俺は、歩道の段差を踏んで飛び出しそうになったしめ飾りを右手で抑えながら、丸子橋を渡り切った。ここから川崎市。綱島街道を十五分ほど走ると中丸子商店街に着く。今日は、萩原心理研究所の今年最後のクライアントが一時に来ることになっている。新年を迎える準備はその後だ。 ◆ 「あのー、一時にお願いしてた藤岡ですけどぉ」 「あぁ、こんにちは。どうぞこちらへ」 東洋薬品の経理部に勤務する藤岡礼子は、今年で三十一歳になる既婚のOL。今日が六回目のカウンセリングである。 外見は飛び抜けて美形というわけではない彼女だが、全体のセンスがいいというか、あか抜けているというか。自分の個性を生かし、普通の女性が普通以上に化けるという東京ならではの美人である。肩にぎりぎりかかる程度のシャギーヘアーが妙に色っぽく、独特のオーラを出している。とにかくアムロになろうとするコギャルたちに見習ってほしいセンスだ。 「センセイ、今年もあとわずかですね」 「いよいよですね」 「けど、去年に比べて年の瀬らしくないと思いません?」 「そうですね、年々らしさがなくなってきています。二十四時間やっているコンビニのせいでしょうか、それとも二十四時間つながっているケイタイのせいでしょうか。とにかくメリハリがありません」 「まだパチンコ屋さんの方がメリハリありますよね、十二時間しか営業してないんですから」 パチンコ依存症の彼女らしい発言だ。 「その後どうですか?もう行ってません?」 「はい・・・、今のところ・・・」 夫が浮気していると誤解し、パチンコにはまってしまっていた彼女に対し、先月、「内観療法」を行った。それが奏功したのか、二百万円の借金を抱えているわりに彼女の表情は明るい。 内観療法は、もともと浄土真宗の一派に伝わる「身調べ」という精神修養法に端を発するもので、家族や友人から「してもらったこと」、「して返したこと」、「迷惑をかけたこと」の三問について記憶をたどっていくのが特徴だ。現在、少年刑務所での矯正や、企業研修などで広く応用されている。 はじめは慣れない瞑想に戸惑っていた彼女であったが、次第に過去のことを語ってくれるようになり、親から受けていた愛情に気付き始めた。厳格な両親と優秀な姉。劣等感と親への反発。ささいなケンカから家を飛び出した中二の夏。その時会社を休んで一日中捜してくれた父。修学旅行を休んで彼氏のアパートに泊まっていた高二の夏。泣きながらそのアパートに迎えに来た母・・・。 「反発するくせにいつも甘えていた。ただ自信のない弱いだけの自分がそこにいた。パチンコにのめり込んだのも、夫に対するわがままと甘えだけ」 内観療法の後、彼女はこう語ってくれた。特に深いトラウマのない彼女は、ストレートに自分を見つめることができたようだ。 「じゃあ、もう大丈夫ですね。行きませんよね、パチンコ」 「はい、もう一ヶ月も行ってませんから、そのことはたぶん大丈夫だと思うんですけど・・・、逆にストレスたまっちゃって」 「そりゃ、たまるでしょうよ。今まで、十時の開店から食事の仕度をする夕方までパチンコしてたわけですから」 「ええ、それで、やっちゃいけないと思えば思うほど全身がだるくなって、頭や肩や腰が痛くなって、何かをする気力がなくなるんです」 依存していたものを急に断ったため、彼女は軽い自律神経失調症になっているようだ。 「そうですかー。じゃあ、ちょっと気分転換に外へ出ませんか、私の車で。そのままお送りしますよ」 「いいんですか?センセイ」 「たまにはね」 俺は、研究所の入口を閉め、駐車場まで彼女と歩いた。 「ごめんなさいね、駐車場遠くて。一ヶ月一万八千円だったものですから、つい契約しちゃったんです」 研究所の駐車場はJR南武線の線路を越えたところにある。俺と彼女は、歳末大売り出しという張り紙たちが妙に空々しい七〇年代風の商店街を十分ほど歩き、萩原心理研究所という文字をリアウインドに印刷したランドローバーに乗り込んだ。そして、二時間ほど前に自転車で走ったばかりの丸子橋の袂まで行き、彼女と土手の斜面に腰をおろした。相変わらず小学生たちがゲームボーイを手に何かやっている。 「藤岡さんは、小さい頃どんなことして遊んでました?」 「そうですねぇー、おはじきとかゴム飛びとか、たまには男の子と一緒に、ろくむしや刑ドロもやってました」 「うん、私の小さい頃と同じだ。じゃ、お正月にはアメリカ製の凧を揚げたりして?」 「ゲイラカイト?」 「うん、それ」 「もちろんやってましたよ」 彼女は屈託のない笑顔を見せた。 「じゃ、『だるまさんがころんだ』ってやつ、やったことあります?」 「ええ、ありますけど、鬼の背中にさわって逃げるやつでしょ」 「そうです。あれって、鬼にさわってから逃げ切れるかどうかを自分で判断して近づきますよね」 「ええ、ある程度の大胆さがないとできません」 「そう。ですから藤岡さん、鬼から逃げ切れる距離にいるなら、ちょっとだけさわってきてもいいんじゃないですか、パチンコ」 「えっ、パチンコ?」 「そう、パチンコ。あくまであなたが判断することですけど、無理に我慢することはないと思いますよ」 「はぁ・・・」 ちょっと安心したような彼女の横顔に薄日が当たり、健康的な土手という背景の中にありながら、またまた色っぽいオーラが俺の方に向かって波打ってきた。俺も人間だ。クライアントが美しければ、仕事を忘れてしまう瞬間もある。 「いいんだよな、戻れる距離なら鬼にさわっても」 「えっ?センセイ何か言いました」 「あっ、あー何でもないですよ。そろそろ送りましょうか」 俺は立ち上がり、ズボンの汚れを手で払いながら停めてある車の方に向かった。 「カウンセラー失格だな・・・」 今度は彼女に聞かれないように呟いた。
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