「遠い空」 第四章 水たまりの中の雲
それにしてもよく雨が降る。そろそろ梅雨入りだろうか、多摩川のカエルの声にも勢いがついてきた。 しかし、最近の梅雨入り宣言は味気ない。「神奈川県地方は十日ごろ梅雨入りした模様です」と過去形でアナウンスしてしまう。多少間違っていてもいいから、リアルタイムでやって欲しいものだ。 桜前線、梅雨入り宣言、梅雨明け宣言、紅葉前線など、すべては美しい日本をその瞬間で再認識する季節のしおりのようなものではないか。人間だって、「五日ごろ機嫌が悪かった模様」とか「十日ごろ焼き肉が食べたかった模様」などと後になって言われたのでは逆ギレもできやしない。堂々とやるからこそ『宣言』になるのである。 ◆ 「ガサガサッ、コトン」 萩原心理研究所の入口に置いてある傘立ての音が、クライアントの来訪を教えてくれた。これで今日五人目。じっとりと空気が重くなるこの季節は心も重くなるのか、クライアントの数も増える。毎年の傾向だ。 「こんにちは」 「こんにちは、どうぞこちらへ」 今日が初めてのカウンセリングである岡田さんは、驚いたことに内ポケットから除菌クリーナーを取り出し、これから座ろうとするソファーの表面を丁寧に拭き始めた。 「あ、あぁ、気にしないでください先生、癖ですからコレ。どうも気持ち悪くてねぇ」 「えぇ、かまいませんよ、潔癖症の人、結構多いですから」 「すいません、先生。私も最初は公衆電話の受話器や電車の吊革を拭く程度だったのですが、最近はこの調子で」 ソファーを拭き終えると、岡田さんは使い終わった除菌クリーナーをテーブルの上の灰皿の中に丸めて置いた。 「岡田さんは、確か東洋薬品の生産管理部にお勤めでしたね」 「はいそうです。今年で勤続二十年になります」 こう言って岡田さんは、今度はズボンのポケットから取り出したハンカチで額の汗を拭いた。七三に分け、ポマードをべっとりとつけた髪が、かけている銀縁眼鏡と同じくらいの輝きでもってテカっている。 「ところで岡田さん、今日のカウンセリングの目的は潔癖症を治すことですか?」 「ええ、潔癖症に限ったことじゃないのですが、何かこう、いつも追い詰められている感じというか、鍵をかけたかどうか気になって仕事が手につかなかったり、今やった行動をもう一度やり直してみたくなったりで、いろいろ考えると家にいるだけで息が詰まりそうになるんです」 強迫観念と強迫行動の典型的な例だ。 「薬物療法は?」 「はい、会社で余っていた向精神薬プロザックの試供品サンプルを飲んでいた時期もありました。その時は調子よかったですけど」 俺は臨床心理士の資格は持っているが、精神科医ではない。岡田さんがいくら望んでも薬は出せない。 「わかりました岡田さん。今日は少し話をしましょう」 カウンセリングの基本はまず相手の話を聞くことだ。この過程でおよその治療のめどが立つ。 「雨、上がりそうですね」 「そうですね、先生」 雨は少し小降りになり、研究所の屋根を叩く音も小さくなった。同時に、商店街の看板や店のひさしに当たる雨音も小さくなり、大きくなっていた会話のボリュームも元に戻った。 俺には、雨音のBGMを聞くと必ず連想する風景がある。 思えば小学校時代の記憶は、ほとんどが雨の中だった。当時の雨は半端じゃなかった。運動場は水はけが悪く茶色の泥水が洪水のように流れていた。ある時、雨水が排水溝のふたを持ち上げ、気づかず通った友人がその中にスッポリ落ち込んだことがあった。びしょ濡れの給食費を窓ガラスに張り付けて乾かした情景を、今でも鮮烈に憶えている。 そして、教室の窓から見る運動場には、いつも黄色地に黒で書かれた「入られません」という立て札があったように思う。さして意味のない映像が、時に記憶のランドマークとなったりもする。 「岡田さんは雨の思い出、何かありますか?」 「うーん、水たまりにわざと入って靴を濡らしたり、運動場に溝を掘って泥水の流れる道を作ったり」 「泥水、抵抗なかったですよね、その時は」 「まぁ、そうですけど」 窓越しの空間が少し明るくなり、BGMが小鳥のさえずりに変わった。 「岡田さん、これから多摩川へ行きませんか?」 「今からですか?」 「ええ、雨も上がったみたいですし」 「多摩川で何を?」 「水たまりで泥遊びですよ、昔やったやつ」 逆説技法とまではいかないが、潔癖症のクライアントに思い切って汚いことをやらせるのも、一つの治療法だ。 ◆ いやがる岡田さんをむりやりランドローバーに乗せ、丸子橋のたもとまでやってきた。 雨上がりの夕暮れは、まだいくらか大気中に浮遊する水分子が光を乱反射し、見慣れた景色を特殊フィルターで処理したような幻想的な映像に変えてくれる。鉄橋を渡る東横線も、川岸に係留してある貸しボートも雨上がりの夕陽を受け、体温を感じる色に輝いている。 「岡田さん、コレ、水たまり」 「いやですよ、入りたくないですよ」 「入らなくてもいいですから、ほら、見てくださいよ」 岡田さんは、土手にできた水たまりをのぞき込んだ。 「あっ、雲」 岡田さんは、水たまりと空を交互に眺めた。 「水たまりに雲が映るってこと、忘れてました」 「泥水のはずの水たまりですが、ちゃんと美しい空の色が映ります」 俺も、水たまりと空を交互に眺めた。 「岡田さん、きれいなものと汚いものの違いって何でしょうか。誰が決めるのでしょうか。電車の吊革を拭くことは決して異常なことではありませんが、この水たまりに白い雲が映るってことも、まぎれもない事実です」 何となくわかったような顔をしている岡田さんにも夕陽は当たる。カウンセリングはまだ始まったばかりだ。 「岡田さん、歌人の田口玲子って知ってますか?」 「いいえ、知りませんけど」 「まさにこの情景を詠んだ作品があります。『雨後の土手水のたまりに幼らは雲を踏みゆく陽を跨ぎゆく』いい歌でしょ」 固まる岡田さんを無視して、俺は片足を水たまりに入れてみた。 白い雲が波打って壊れ、また元に戻った。
|
novel menu
|