「遠い空」 第五章 祭り囃子が聞こえる
「ヨイサヨイサ」 威勢のいいかけ声が中丸子商店街を駆けている。 秋祭りの季節だ。 秋祭りはほんとうにいい。ここが生まれ育った街ならもっといいのだが、秋祭りとお御輿に対する思いは場所が違っても日本人なら同じはずだ。 お祭りの前夜、神社の薄明かりの下、ワクワクしながらお御輿の屋根を磨いて魂のテンションを上げる。当日の朝、宮出しをした後、濡らしたロープでお御輿を縛って鉢合わせに備える。この、年に一度の感覚は理屈抜きだ。 ほんの二ヶ月前、商店街組合が企画した夏祭りがあり、サンバかなんだかわからない妙な踊りが練り歩いて一部で盛り上がっていたらしいが、俺はそっぽを向いて二日間旅行に出かけていた。何でサンバなんだ。 お祭りは地域に土着のもの、さらに言えば農業と折々の恵みに根付いたものであり、組合が声なんか掛けなくても自然に体がお御輿の方に向かってしまうものなのである。 収穫祭としての秋祭りを経て、体は冬へと向かう。そういう風にできている。 ◆ 「ちわーっ」 威勢のいい声と法被姿が萩原心理研究所に飛び込んできた。 「えーと、予約入れてないんすけど、いいっすかねぇ、梨田っていいます。三十七歳です」 「ええ、今空いてますからいいですよ」 どうやら祭りの列から抜け出してきたらしいその人は、とりあえずクライアントのようだ。普段は、予約なしのカウンセリングはしないことにしているが、まあいい、お祭りだから特例だ。 「で、どうしました」 「とにかく最近ツイてないんっすよ。なにをやってもまるでダメ。さっきもね、担ぎ棒の角で頭打っちゃって、ほら、これ、たんこぶ」 「は、はぁ」 たぶん梨田さんは、どういう人がカウンセリングを受けに来るかわかっていない。ここを、運勢判断か占いか何かの館と勘違いしているのかもしれない。 「それでね、どうしたら私に運が向いてくるのか、相談したかったんですよ、先生」 「相談って言われても、運のことですからねぇ」 「わかってます、わかってます。研究してるんでしょ、運のこと」 全然わかっていない。 「けど先生、いいですよねぇ、祭りは」 「そうですね、私も大好きです」 「よかったら先生、昼から担ぎますかお神輿」 「いや、いいですよ、よそ者ですし、私」 「そうですかー、でも、ほんとは担ぎたいんでしょ、先生」 担ぎたくないわけではないが、俺はこの街に来て二年だ。まだ早い。 「お御輿誘ってくれたお礼に、無料でカウンセリングしましょう、ツイてない時の乗り切り方について」 「そうですか、ありがとうございます。その、カ、カウン何とやらお願いします」 祭り囃子の音が遠くなった。お御輿が丸子日枝神社の方に行ったらしい。 「梨田さん、人間が持っている運の絶対量はみんな同じだって知ってますか。ただ、運の配分は人によって違いますけど」 「配分?」 「ええ、勝負どころで最大限に運を活用できるかどうかの配分です。どうでもいい場面で運を使ってしまう人は活用のへたな人です」 「なるほど。で、私の場合はどうなるんです?」 「それはわかりません。ただ、最近ツイてないとすれば、それは運を貯金しているからだと考えればどうでしょう」 「貯金?」 「はい。これから来る大一番に最大限の運を配分できるように、わざと運を使わないでツイてない状態にしているのかもしれません、無意識のうちに」 「じゃ、大一番が来るってこと?」 「そんなことわかりません。私は占い師じゃありませんから」 「そりゃそうです・・・」 明るくなったり暗くなったり、ほんとうに少年のような人だ。いや、今日だけ、祭りの日だけ少年に戻っているのかもしれない。 「あっ」 「何か?」 「いやねぇ、実は町内会で来週韓国行ってカジノやるんですけどね、その時大勝ちするために今ツイてないのかもしれないって思ったんですよ、どうでしょう」 「そう考えるのもひとつの方法です。じゃあもう一つアドバイス。もし、ルーレットで運の配分がピタリはまって大勝ちしても調子に乗ってはいけません。ディーラーとツキの神様に運を貯金してください」 「ディーラーとツキの神様?」 「はい、ディーラーへの貯金はチップです。プロのディラーは思った目に玉を落とすことができますから。それと、ツキの神様への貯金。これは難しいですけどわざと負けることです。わざと負けて運のバランスを取るんです」 「せっかく勝ったんだから、勝ち逃げすりゃいいじゃないですか」 「いいですよ、それでも。けど、運を使いすぎたツケは必ずまわってきます」 「こわいなぁ、先生」 梨田氏の顔が真顔になった。 祭り囃子がまたボリュームを上げて近づいてきた。 「宝くじで大当たりした人は、その後の人生がボロボロになるという話をよく聞きます。あれは、大金を手にしたせいじゃなく、運の配分を考えなかったからです」 「なるほどねえ、そういうもんですかねぇ」 梨田さんは、それなりにすっきりした顔になった。これもカウンセリングか。 祭り囃子のボリュームがさらに大きくなった。 「じゃ、祭りに戻ります。お世話になりました。先生、ほんとにタダでいいんですよね」 「いいですよ」 梨田さんは威勢よく法被を翻し、研究所の階段を駆け下りていった。勢いのわりにはナイーブな人だった。 明日からはまた静かな街になる。 祭りの後の寂しさは独特の虚脱感を伴い、普段の時以下に気持ちが沈んでしまう。その上、寒い漆黒の冬を考えると気も重い。つまり、農耕周期の節目となるハレの日が、季節の陰と陽を違える境となっているのである。 考えてみれば、祭りの後の虚無感も暗い季節の到来も、広い意味での配分なのかもしれない。人としての本能や自然の摂理が長い目で見てバランスを取っているのだ。 祭り囃子がまた遠ざかっていった。来年の秋はお神輿を担いでみよう。
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