「遠い空」 第六章 鶴の恩返し その一
街から正月らしさが消えてしまったことを暖冬のせいにしてはいけない。 三が日の終わりを待っていたかのように降りだした雪は、中丸子商店街にやっと冬らしさを運んできたが、冬らしさと正月らしさは違う。新年を迎える気持ちは、新年を迎える人の内側から膨らんでくる真摯なこころなのである。 もちろん、中丸子商店街は正月営業などというバカなことはしない。が、大晦日にレンタルビデオショップやゲームソフトショップに群がる若者が携帯電話で新年のあいさつをするわけだから、いにしえの、あの凛とした元旦の空気を感じることなどもう不可能に近いのかもしれない。 音の消えた街。 冷たい空気と一緒に鼻をさす火鉢の炭のにおい。 砂糖醤油で食べるアンコのない餅。 正月とはこういうものだ。 時代は変わってしまったのか。 ◆ 夕方五時。俺は新年の初仕事である出張カウンセリングを終え、武蔵小杉の街を出た。出張カウンセリングはしないことになっているが、今日は例外。クライアントが俺の恋人だからである。もちろんクライアントを恋人にしたのではなく、恋人だから出張するのである。異常なまでの寒がりの俺が冬空に自転車を走らせるのには、それなりの熱いものが必要なのだ。 雪が積もり始めてきた。街が白く塗りつぶされる前に戻らなければ。俺は中腰になって自転車のペダルを踏んだ。 しばらく走って、ちょうど上丸子交差点の信号待ちで止まった時、歩道のすぐそばにある上丸子のバス停に立つ女性と視線が合った。 すぐに視線を外した。 「あれっ」 もう一度視線を合わせた。 「萩原さんじゃない?」 「えっ・・・、あっ、サトミちゃん」 「うん」 サトミというその女性とは十五年ぶりの再会であった。これから数カ月間の運命を変える出会い。 昔のテレビドラマで、主人公の二人だけにスポットライトがあたるシーンをよく見た。当時は安っぽい演出だと笑っていたが、実際、こういう出会いの瞬間は周囲の景色が飛んでしまうらしい。そういう出会いだった。 「久しぶり、元気?」 「ああ、サトミは?」 「ええ、私も相変わらず」 「バス待ってんの?」 「うん、だけどなかなか来ないの。雪のせいかも」 「よかったらコーヒーでも飲まない、時間ある?」 「うーん、少しだけなら」 雪は少しずつ足音を早め、少しずつその街の色を奪いながら、少しだけ二人を明るく照らそうとしていた。 音も光もすぐに吸い込んでしまう降り始めの雪は、サトミのちょうど肩にかかるくらいの髪にも落ち、その髪の色を奪うように消えていった。 「近いからここにしよう」 俺は、一番近い一八〇円のコーヒーショップにサトミを誘った。 「ゴメンね、こんなところで」 「ううん、寒いから近い方がいい」 昔のままだった。 十五年ぶりの再会にしてはあまりに騒がしいコーヒーショップのざわめきに、二人の会話も消されてしまいそうであったが、逆にこのノイズが二人のブランクも消してくれそうな気がした。 「今、どこに住んでるの?」 「埼玉の戸田って知ってる?」 「ああ、埼京線だろ」 「うん、そこの駅の近く」 「一人で住んでるの?」 「うん」 「彼氏は?」 「いない・・・、萩原さんは?」 「いるようないないような・・・」 雪が激しくなった。 コーヒーショップの窓からながめると、雪は闇から突然あらわれる。 この出会いのように。 「俺、寒いのに自転車乗ってたから出会えたんだよね」 「だってすごく寒そうにして乗ってたんだもん。目立ってたよ」 「クルマで来てなくてよかった」 「どこに行ってたの?」 「ちょっとカウンセリングの仕事があって、小杉まで」 「へぇー、お医者さんやってんだ」 「いや、そんな立派なものじゃない。無資格だ」 「そうよね、高校時代の萩原さんからは想像できないものね、白衣姿なんて」 二人が最後に会ったのは、俺が高校三年の冬。サトミは一学年下で、特につき合っていたわけではないが何となく波長が合い、彼氏がいることを承知の上でよくデートに誘っていた。ところが俺が卒業する頃になって突然学校に来なくなり、以来、音信不通。 しかし、十五年前に突然会わなくなってしまっただけに、当時の気持ちとテンションはそのまま凍結保存されていたようだ。それがこのコーヒーショップのぬくもりでとけ出しているのである。 「よかったら、今晩食事しない?」「うーん、あのね、わたし部屋で犬飼ってるの、ホントはいけないんだけど。それでね、餌やらないといけないから・・・」 「じゃ、あんまり遅くならないようにするから」 「うん・・・」 ここでサトミと会話している俺は、さっきまで恋人にカウンセリングしていた俺と同一人物なのか。人の気持ちは、こんなにも急な坂道を登れるものなのか。 「風ゆえに旗ははためく、愛ゆえにヒトは人めく・・・、か」 サトミはサトミで、南天の実をデザインしたハンカチを手に意味ありげな独り言をつぶやいている。 これからどうなるのだろう。こんなにも瞬間を生きてしまっていいのだろうか・・・。 刹那の恋というネガティブな言い方もあるが、瞬間の連続であれば輝ける恋が刹那で終わることはない。 それは雪と同じ。ひとつひとつの雪は決して永遠ではなく、その美しい結晶や、成長に費やした時間の長さとは無関係に、舞い降りてしまったそれぞれの場所で瞬間を生き、背景にとける。ただ、それが連続してつぎつぎに営まれることで雪というものへの実像を結び、その堆積によってはじめて銀世界という永遠を得るのである。 雪は深くなった。 サトミの犬は空腹のまま朝を迎えた。
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