「遠い空」 第七章 鶴の恩返し その二
日本に生まれてよかったと思う瞬間が年に何回かあるが、とりわけこの季節にはそれを強く感じる。 木々の緑は目からしみ入り、やがて全身を染め上げてしまうほどに燃え、濡れている。あふれる水蒸気が空気を動かし、風の胎動を呼ぶ。心地よいはずだ。 立春から数えて八十八日目。あと四日で立夏を迎えるという日に、俺は中丸子から車で一時間ほどのところにある安藤家の御神楽に招かれた。カウンセリングのお礼ということらしい。安藤家はその先祖が北条氏に仕えていたという旧家で、重要文化財に指定されている長屋門が現存している。 ◆ 「先生いらっしゃい。遠いところお越し下さってありがとうございます」 「ああ、安藤さん。今日はおことばに甘えて、御神楽見物にまいりました」 長屋門をくぐったところで、一週間前にカウンセリングした安藤由香里が出迎えてくれた。今年三十八歳になる彼女はまだ独身だが、男子のいない安藤家の事実上の継承者である。そのストレスからか、心気状態と呼ばれる症状があらわれていた。 心気状態とは、自分の健康状態についていつも心配していて、頭が痛い、肩がこる、腰が痛いなどと、訴えが常に体中を移動する心身症である。 一般的に心気状態のクライアントは完全欲が強く、ちょっとしたささいな症状にとらわれがちであり、常に自分の体調は完全でないという不安感を持っている。そして、子供のとき過保護に育てられた成績優秀な優等生という共通項もある。 「さあセンセイ、もうすぐ御神楽が始まりますから、どうぞ中庭にお回り下さい」 彼女は、神楽舞台が設けられた屋敷の中庭に俺を案内してくれた。すでに近所の若衆が二十人ほど集まり、車座で盃を交わしている。 「安藤さん、その後どうですか」 「はい、おかげさまで腰痛は少し楽になりましたが、二、三日前から頭が痛くなっちゃって、これって脳腫瘍じゃないですよね」 「安藤さん、血液検査の結果、異常なかったじゃないですか。百パーセント健康ですよ。それに、私だって頭痛が二、三日続くこと、よくありますよ」 「は、はい、そうなんでしょうか」 いかにも旧家の継承者といった感じの彼女の青白い肌が、大木の木下闇に同化している。生来の顔色の悪さも彼女の心気状態を悪化させている要因かもしれない。 ところで俺は、本来心気状態の治療をあまり得意としない。できればお断り願いたいクライアントだ。それをなぜ受けたのかというと、クライアントにゲシュタルト療法を実施することで、自分自身ブルーの状態から脱却したいと考えていたからである。 ゲシュタルト療法は、「考えるより感じよ」「想像をやめ現実を見よ」「自分自身であれ」などの九つの原則を持ち、「いまここで毎日を最大限に生きる」というプラス思考の人間主義的な精神療法である。 俺も救われるかもしれない。 そう願った。 もちろん、雪の日に出会ったサトミに起因するブルーから。 銀世界の朝を迎えた日からサトミとは逢っていない。電話もケータイもないという彼女に教えた俺のケータイだけが唯一の連絡手段。だが、全く鳴らない。本来なら二十四時間営業でサトミの声を届けてくれるはずの文明の利器だが、鳴らなければただの懐中時計だ。 恋愛の心気状態よろしく、あの日以来、悪い症状が頭の中でうごめいていた。 「また逢いたいと言ったのは社交辞令か」「カッコいいと言ってくれたのは心にもないお世辞か」「本当は彼氏がいるんじゃないか」 心の中がぐちゃぐちゃになり、押しつぶされそうになる。男としてカッコ悪い。なぜサトミのことを信じられないのか。情けない。またブルーに入る。 雪の日のサトミは雪女の幻想か、はたまたもののけか・・・。 「センセイどうぞ」 「あ、あぁ、ありがとう」 安藤由香里がビールを注いでくれた。 舞台ではすでに丸子神社の神官が祝詞を読み上げていた。里神楽のはじまりである。 荘厳な空気は溶け、宴のなごやかさを迎えた 天狗が舞う。孫次郎が舞う。神楽太鼓の響きは澄んだ空気をふるわせ、「しゃんとせよ」と告げている。 万葉の御神楽はなぜに脈々と現代まで受け継がれてきたのか。八百万の神に五穀豊穣を願う中で、人々は生命を演じ、救済のかたちを探り、魂の行方を指し示したのか。 神職たちは果てしなく舞い続ける。 この時代の人々は、御神楽に何を見ていたのだろう。いや、意味などなくていい。あらゆる行為に理由づけをしたがるのは現代人の悪いクセだ。ゆっくりと時間が流れていた頃には、無駄なことや、なくてもいいようなことがたくさんあったはずだが、それもまたいい。今は、そういう流れに身を置いてみよう。ケータイが鳴らないことなど、千年の時空の前ではレベルの低すぎる話だ。 思えば平安の通い婚は、いつ逢えるかわからないという危機感と嫉妬心をはらんで成り立っていた。 ならばこその情熱。 燃え上がるこころ。 八十八の嫉妬を重ねた夜は、俺を恋愛の舞台に置き去りにした。カウンセリングする資格などないくらいに恋を病んだ俺は、御神楽を楽しむ資格もないのかもしれない。 その時、ケータイが鳴った。 サトミからだった。 「ごめんなさい、連絡遅くなっちゃって。犬が病気したり、私が体調崩したりで動けなかったの。本当にごめんなさい」 「うん、いいよ、全然。よかったら今から行くけど」 「今はちょっと・・・」 「ダメなの?」 「明日、渋谷まで出る用事あるから、その時にでもどう?」 「じゃ、そうしよう」 「ごめんなさい、わがまま言って」 「わがままじゃないよ・・・。電話もらってうれしい」 「うん。じゃ、明日」 御神楽の舞は続く。 古来、人は自然の豊かさが厳しさと同義であることを知り、畏れの感情として神々を舞った。 そして俺は、悦びや、切なさや、苦しさを全て包み込んで人を愛するということを学ぼうとしている。 しびれるように緑の深い季節に。
|
novel menu
|