「甘い夜なら」 第三章
「こんどの火曜日あいてる?」 「えっ、火曜日って十四日?」 「うん、十四日」 「あいてるよ」 バレンタインデーなどというものは、今となってはメディアに動かされる虚像の産物であって、それによって心を動かされることなどないとたかをくくっていた健治であったが、一週間前に南とこの言葉を交わしてからというもの、妙に落ち着かないでいた。 そして、あの二文字。 「本命」ということばの中に見え渡る 熱き思いはベルギーの香りす 漢字二文字がこれほどまでに人の心を動かすものなのか・・・。 「義理チョコじゃないとは思ってたけど、まさか・・・」 「うけとってネ」 「ありがとう」 南に他に男がいようが、他に本命を渡す相手がいようが、そんなことはどうでもいい。健治にとってはそれが全てなのだから、その全てを受けとめる心を持たなければ、いつまでたっても子供のままだ。 「十四日あいてますか」といふ君も ひと月後には我の「本命」 「今度の週末、俺と一緒に東京に行ってくれないか」 健治は、徐に箸を置いてこう言った。 「東京?」 「うん、青山で同級生の婚約パーティーがあるんだ」 「ほんと?行ってもいいの?」 健治は南を東京に連れて行くことで、二十四時間南の男のことを考えなくてもいい空間を作ってみたかった。そうすることによって見えてくる世界というものに、すがってみたかった。 鍋ひとつ囲むふたつの夢の道 道は原宿表参道へ続く 五分遅れの一六二便は、雨の中を東へと向かった。 「よかった、健治が旦那さんじゃなくて」 「どうして?」 「きまってるじゃない、こんなことされたらいやでしょ」 「・・・」 やはり、自分のしていることは間違ったことなのか・・・。しかし、気持ちを抑え、やりたいことにも目を背けながら生きていくことを、誰が正しいと判断できるのか。それならば、自分の信じる道を歩くしかないと健治は思った。 飛び立ちし二人の先の荒天も 雲海とすれば晴天とならむ 健治と南が低気圧まで東京に連れてきてしまい、三月も終わりだというのに、コートなしでは歩けないほどの荒れ模様であった。 「ひごろのおこない?」 「かもね」 屈託のない南の笑顔は、いつも健治の心を救う。それは東京でも同じ。 「せっかくだから、原宿で降りて歩こうか」 「寒くない?」 「二人でいればね」 名ばかりのやよひの風は参道に 吹けど二人はぴいこーとの中 表参道は思ったより冷たかった。 降りしきる雨に、もちろん、アパレルにチェックを入れる余裕もなく、ただ、『天気がよければオープンテラスでコーヒーでも』という三日前に交わした言葉が、健治の両肩に重くのしかかるだけであった。 「もしかして健治が雨男じゃない」 「だまってたけど実は・・・」 「こまったひと」 南の顔は全然こまっていない。 約束の場所である青山ベルコモンズまであと少し。 時ならぬ春の嵐の激しさの ごとくに君を想ふ青山 健治は南を誘い、ペリエを片手にパーティー会場を出た。 「ふーっ、疲れたね」 「けど、健治と健治の友達に囲まれているから、東京にいるのが嘘みたい」 「じゃ、東京らしい所に行こうか」 「どこ?」 「港の見える丘公園」 「それって横浜じゃない」 「いいの、どうでも」 健治は、友達から借りた車で大黒埠頭を越えた。日中の最高気温が五度だったことを伝える天気予報も、ハマラジだとさまになる。 ハマラジの流れる丘の冷たさも そこのみ知らずらぶらぶの夜 翌日、仕事で長野に行かなければならない健治は、羽田で南を見送った。 「またね」 「じゃあまた」 二人でいる時は、ただ東京で会っているというだけでいつもと変わらない感じであったが、いざ一人になってみるとその余韻は予想以上に大きく、再び東京に行くことを約束した一年後が、気の遠くなるような先のことのようにに思える健治であった。 信濃路にひとり立つ身はさみしけり 「次の三月まあまあ遠いぞ」
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