「甘い夜なら」 第四章
長野への出張から帰った健治は、真っ先に南の部屋に向かった。 「南の顔を見ると妙に落ち着く」 「私もそうよ、だからこういうことなの」 「よくわかったよ、南の言ってたことが」 一週間ほど前に健治は、『健治の顔を見ると落ち着く』という南を、『俺は落ち着く所じゃない』と諭したことがあった。 確かに、落ち着いてしまったその先には何もないのかもしれない。結婚の対象ではない健治の所で落ち着くのは、間違ったことかもしれない。しかし、ドキドキすることだけが恋愛でもない。 ほっとするその瞬間のほほえみに なごめる時となりにけるかも 「再会して一年ね」 「あっという間だね」 「あっという間ね」 健治と南が「ラカンス」というショットバーで偶然再会してから、一年が経とうとしていた。 この一年で二人は何を得たのか。 恋愛には恋愛のルールがあり、夜の街には夜の街のルールがある。それを学んだ上での廻り道であれば、その道もまた正しい。 「私の部屋でパーティーしない?一周年の」 「OK!」 ひととせをかへりみすれば南から 学びし夜と朝のぬくもり 「こんなに頑張って料理作ったの初めてよ」 「ほんとに?」 「買い物だけで二時間もかかっちゃった」 テーブルの上に並んだ南の手料理。そして傍らのドンペリの空瓶には、百合の花も妖しい。 「このドンペリ、去年のクリスマスのときの?」 「そうよ、合うでしょ、この花に」 「捨ててなかったんだ、ドンペリの瓶・・・」 「あたりまえじゃない」 「ありがとう」 「テレビつけようか」 「そうだね」 リモコンを探す南の後ろ姿を見る健治。その目には、大切なものを包み込む優しさがある。 「いままでで一番の大作よ」と君が言ふ、 ドンペリに咲く白百合もいふ 「片想いの時期が一番いいってよくいうけど、今までそんなことありっこないと思ってたけど、そうかもしれないね、もしかすると」 健治がひいきの男優が出ているドラマは、片想いがテーマだった。 「その瞬間だけ見ると、そりゃ片想いより両想いの方がいいに決まってる。けど、流れで見ると、片想いの次は両想いだけど、両想いの次は別れだものね」 頭のいい南は、まだドラマが始まって三回目だというのに、もうそのテーマを把握してしまっている。 「そう、両想いより片想いの方がいいっていうのは、日曜日より土曜日の方がいいっていうのと同じことなんだよね」 「じゃ、私たちはどうなるの?」 「日曜日の次が祭日の場合だってあるじゃない」 「そっか・・・」 「明日、海でデートしない?」 「うん」 「ゴメン今日はあいてないの」といふ笑顔 それは明日への消去法の誘惑 健治は、防波堤のそばに車を止めた。 「砂浜におりる?」 「うん」 人影のない五月の海は、まだだれも受け入れていないもののみが持つ美しさを放っており、そこから吹く風も、また新鮮であった。 「この関係がずっと続くといいね」 大好きな南の香りと大好きな潮の香りを浴び、最高の言葉を南の口から聞いたとき、健治は、自分の心がその海の色のようにどこまでも澄んでいくのを感じた。 ずっと続く燃ゆる心もずっと続く それは五月の海原のごと その日も、健治は南の部屋で夕食をとった。 今日歩いた砂浜で、真夏にビールを飲もうという話が盛り上がっている時に、南の部屋の電話が鳴った。 健治は一瞬箸を止めたが、南はそのまま話し続けた。 「ねえ、こんど水着選んでよ、わたしの」 「ああ、いいよ」 電話は五回ほど鳴って切れた。 二、三分してまた電話が鳴った。 健治は、また箸を止めて南の顔を見たが、やはり南はそのまま話し続けた。 「何色がいいと思う?」 「わかんないよ、水着の色は」 電話は、今度は三回で切れた。 久しぶりに感じた男の影であった。そんなことであれこれ考え込む時期はもうとっくに卒業したはずなのに、新鮮な海風で心を洗ったはずなのに、電話を無視する南にも、それに応えようとする健治にも、どこかぎこちないものがあった。 「彼からだろ、出なくていいの」 と聞きし我もあしたの夜は声の主かも テレビの放送時間が終わり、ビールの空き缶がテーブルの上に四、五本ならぶ頃になっても、南はベッドの中に入ろうとしなかった。 「ねえ、私と会うのからだのため?」 まさか南の口から聞くことはないと思っていた巷の常套句を耳にし、健治はうろたえた。 しかし、『そんなわけないだろ』という言葉もすぐには出てこない。もちろん、そんなわけはないのだが、ここで優しい言葉をかけたところで、そして、どれだけそれが真実に近い気持ちだとしても、そこから先には何の発展もない。 もともと偽りの上に成り立っている関係なのだから、冷たい言葉の方が傷つかない場合もある。 「そうだよ、からだのためだよ」 それだけが証にあらずと言ひし夜も 「それが目的?」それだけの朝 「このままでいいのかなぁ」 「えっ」 「こんなことしてていいのかなぁ」 「いいに決まってるだろ、その瞬間が楽しければ」 「そりゃそうだけど」 南が結婚適齢期という五文字の幻想に揺れているのはよくわかった。 「結局、傷つくのは私でしょ」 「それはちがう・・・」 広い原野を自由に歩く恋愛は、一見楽しく、傷つくこともなさそうに感じるが、実際は草に隠れた石につまづき、水たまりに足を取られ、自由に伴うリスクはそれなりにある。それよりは、狭い道でも、どこにもぶつからない場所を選べば痛みのない日々はどこまでも続く。 「けど、それって目的がないじゃない」 着く駅のありし道のみ道にあらじ 歩むことこそ恋のあかしぞ
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